ある意見 1追加

ある意見

>子供を遠くから見守るだけで、心から子供とかかわろうとはしない誤った受容的な対応が、親にも支援者にも増えています。

分かったような感じがするけれど、よく分からない言葉が使われています。それについて述べてみます。

>遠くから
もちろん長さについての距離ではないですね。きっと心の距離だと思います。子どもの心に直接関わらないで居るという意味なのでしょう。子供と親との心の関係を、日本ではこのように表現するという意味なのでしょう。

>見守る
見守るには見ると異なる意味合いがあります。意識的に時間をかけてみるという意味でしょう。その結果として、見守られている人は見守っている人の視線を感じるようになってしまうと思います。不登校の子供と親との関係なら、見守るのは親で見守られるのは子供になります。親については子供に関心を持ち続けるけれど、関わらない、手出しをしないと言う意味だと思います。

不登校の子供の立場から見たら、言葉通りに母親が子供を見守り続けたら、子供は母親に監視され続けていると感じるはずです。母親に急かされている、今の自分を否定していると感じるはずです。その子供の感じ方は結果として自己否定に繋がり、辛い心の回復に役立たないばかりか、不登校問題の解決に役立ちません。不登校の子供が母親に求めて居るのは、子供を信頼して待って欲しいという物です。子どもの成長に任せて欲しいという物です。

>心から子供と関わろうとはしない
この場合の心からとは、本気で、全力を挙げて、母親の持っている知識や可能な限りの方法論を利用して、と言うような意味でしょう。母親の持って居る知識や方法論が子どもの心に沿っていれば、子供に一生懸命関わるのは正しいのですが、現実に不登校の子供の心を理解できる人が殆ど居ません。そのために子供に関わろうとするとかえって子どもの不登校問題を難しくすることを感じる母親は、子供を苦しめ悪化させるなら、対応を止め留と言うことになっているようです。

>誤った受容
現実を否定するのは簡単です。この著者は正しい受容と知っているからこのように言われるのでしょうが、このような文章を書く著者は、不登校の子供について現実に正しい受容を知っていると、私には思えません。不登校の子供について正しい受容とは、その不登校の子供一人一人について、その子どもの心に沿った対応で待ち続けることでしょう。具体的な方法は子供によって皆違いますから、言葉にして表現できないという難しさがあります。

結論として言えることは、この著者の正しいと思う対応が最近は取られていない、社会で認められていないという意味なのでしょう。具体的な方法論は示されていませんが、著者に従えば不登校問題は解決できますよと言う意味を主張しているのだと思います。そして現実に不登校の子供に対応をしている者からは、現実の不登校問題を子どもの心に沿って理解できていない、大人の思いつきからの主張ではないかと判断をします。