登校拒否と不登校 2

学校が辛くて、子どもが学校に行かない姿を、登校拒否と表現しても、不登校と表現しても構いませんが、その言葉から単純に反応をすると子どもをかえって苦しめることになります。

不登校という言葉は、単純に考えると、子どもが学校に行かないのですから、学校に行かせれば良いと言う発想になりかねません。叉現実にそうなっている場合が多いです。政府も、社会も、学校も、親も、不登校の子供が学校に行かないなら、何とかして行かせようと工夫をするというのが、現在の風潮でしょう。

登校拒否という言葉も、周囲の大人の目から見て、子供が学校に行こうとしないという姿、子供が学校に行きたくないという姿、からの言葉でしょう。この言葉の方がより子どもの心を反映していますが、今の日本では子供が学校を拒否をするという考え方、観察の判断を受け入れていません。子供が学校に行くのが当たり前、子どもの人権として、子どもの将来のために、学校に行かせるのが当たり前、学校に行かせないことが、子どもの人権を奪うように考えているようです。子ども時代の症状や行動、人権を無視してでも、子どもの将来を考えて、子どもに学校に行かせようとする、勉学の機会を失わないようにさせようという理由のようです。

ここで不思議なのは、子どもの勉学の機会を与えるだけで、子どもは勉強をしてくれるのかという疑問があります。子どもが苦しくて今を維持するだけで精一杯なときに、勉学の機会を与えて、子どもが勉強をしてくれるかと言うことを、学校関係者は、大人は考えているのでしょうか?