卒業式から 3

私が時々通る国道の脇に二宮という道の駅があります。そこに二宮金次郎銅像があります。私が小学生の頃、各学校にこの像があったのですが、今は全くなくなったようです。無くなった理由はここでは問題にしません。

私が言いたいことは読み書きを習うほどの経済的な余裕が無かった、機会が無かった二宮金次郎が本を読んでいるということです。学校の教師の主張では、学校に行かないと読み書き算数が出来ないまま大人になり、社会生活が出来なくなる、叉は社会生活に不利になると言っています。なぜ二宮金次郎が本を読める、つまり文字を読めていたのか、そのことを説明した資料を私は知りません。

あくまでも私の推測ですが、二宮金次郎は身を粉にして働きながら、それと同時に文字を読めるようになりたかった、そのための努力をしていたという意味では無いかと思います。文字を読めるようになりたいという意欲がとても大きかったのでしょう。

今の時代、子ども達は働く必要がありません。読み書き算数が出来るようになりたいと言葉では表現しなくても、それが可能になる学校に喜んで行っています。その様にしていても、今の学校は子どもを辛くする場合が有り、そのために心が辛くなったこどもは、学校に行こうとしなくなります。学校に行かないで家で好きなことだけをしているだけでは、読み書き算数が出来るようにならないと常識的な大人は考えるようです。

ところが現在の子ども達が楽しく過ごすためには、どうしても文字を覚える必要があります。不登校の子供も学校に行かないでも、それをしてしまいます。学校に行っていない子ども=不登校の子供の多くは当面楽しむのに必要な文字を読むことを優先しているようですが、自分たちの楽しみをより発展させるために、必要を感じて文字を書いたり、算数を始めたりします。不登校になったばかりの子ども達に二宮金次郎のような向学心という物はありませんが、楽しさの中で必要を感じて、そして経過の中で向学心を生じて、勉強という形でない勉強をしています。