母親への暴言は子どもの意思か 追加

殆ど全ての人は、心という概念で大人の心、子どもの心を考えます。

心を客観的に理解するには、心を脳の機能と理解する必要があります。脳死になればその人の心を感じる事が出来ませんが、それでも心という概念から心を見つめる人には、脳死の人の心も今この肉体には無いけれど、必ず何処か他の所、例えばあの世や天国を考えて、話を進めます。

心を脳の機能と理解するなら、子どもの脳と大人の脳と異なりますから、子どもの心と大人の心と異なる事になります。脳科学的にはそれ以上のことを言うことが出来ませんが、現実の子どもを観察していると

刺激からの知識からの言葉
刺激からの行動と其れを説明する言葉
刺激から言葉にならない行動

と分かれることに気づく必要があります。
子どもの意思とは、刺激からの行動と其れを説明する言葉と表現できると思います。子どもの場合の意思とは、何かを得ようとする脳内の動き、それに伴う何かを得ようとする行動と其れを説明しようとする言葉を、意思と考えて良さそうです。その点が大人の意思と異なります。

大人と違って刺激から子どもの持っている知識から行動することは無いか、極めて難しいようです。子どもの場合、何の刺激も無くて、知識を働かして言葉を言うことも大変に難しいようです。子どもの場合言語行動、身体行動とも、何か外的に、内的に刺激があるからそれに反応をしています。

子どもの場合、刺激を受けるとその反応の仕方として、何かを求めようとする反応や行動が生じる場合と、何かから逃げ出そうとする行動を生じる場合があります。この何かを求める行動は、情動の接近系の反応です。何かから逃げ出そうとする場合は情動の回避系の反応です。何かから逃げ出そうとする行動、其れを説明しようとする言葉は、意思と表現しない方が良いようです。

大人の心では、情動に配慮しないで、その大人の心を考えることが出来ますが、子どもでは知識は知識、子どもの反応や行動は、情動が一番大きな役割を果たすという事実を配慮する必要があります。そして子どもは、心が辛くなければ、思春期を超えると移行期に入り、何年かの社会経験をすることで、大人の心になって行きます。