一時的に怒るけれど

退学というのは学校を辞めるということであり学校にどうしても行けない子どもにとっては安心する嬉しい話しだと思うのですが、なぜ退学の話しをきっかけに荒れてしまうのでしょうか?
退学の話しをしたらほっとして嬉しくなるのではないですか?

>退学というのは学校を辞めるということであり学校にどうしても行けない子どもにとっては安心する嬉しい
そうです。それ故に退学を納得出来た子どもは、いろいろな方面に心のエネルギーを発揮していくようになります。

>なぜ退学の話しをきっかけに荒れてしまうのでしょうか?
以前から申し上げているように、子供の心には意識の心と習慣の心と情動の心があります。不登校とは情動の心にあるfecorが協力に学校に対して、学校関係の物に対して拒否反応を生じる心の反応の仕方です。その拒否反応の仕方として学校から逃げる、よい子を演じる、荒れる問題行動をする、心の病の症状を出すがあります。

子どもは意識の心で学校に行かなくてはならないとなっています。それが実現できなくて、情動の心のfecorが反応をして辛くなっています。不登校の子供の意識の心は学校に行かなくてはならないになっていますから、学校に行くなと言われると子どもは子どもの持って居る学校に行かなくてはならないと言う知識を否定されてしまいます。あなたは間違っていると言われることですから、子どもは怒り出します。荒れてしまいます。

所が本心の情動は、学校に行くなと言う母親の対応で心がとても楽になります。ですからすぐに子供の怒りは収まって、子どもは落ち着いてしまいます。心のエネルギーをいろいろな方面に発揮するようになります。

>退学の話しをしたらほっとして嬉しくなるのではないですか?
学校に行かなくてはならないという知識を強く持っていない子どもは、学校に行くなと言う母親の言葉で割と簡単に落ち着いて楽しみに耽ってくれるようになります。学校に行かなくてはならないとしっかりとした知識を持っている子どもは、母親の学校に行くなと言う言葉で瞬間的に楽になりますが、それに遅れて学校に行かなくてはならないという知識を否定されたことからの怒りが強く機能をして荒れてしまいます。

多くの親はこの荒れで、子どもが学校に行きたかっていると理解しがちですが、それは子供の心に沿った理解ではありません。見掛けに振り回される子供の心が分からない人の反応の仕方です。別の表現をすれば子どもからのテストに不合格だったという意味になります。

その荒れを荒れのまま放置しておくと、子どもの方で荒れる意味がなくなり、学校に行かなくてはならないという知識を否定されたという事実が薄まっていき、情動の学校に行かなくて良いと言う安心感が表面に出てきて、子どもは落ち着いて子どもの楽しみを追い求めるようになります。学校に行かなくてはならないという知識が弱まっていきます。と言うより無くなっていきます。最終的にほっとして安心できて、嬉しいという言葉は当てはまりませんが、学校に行かないことが当たり前になってしまいます。