今一度fecor

心が辛くなる場合の表現として
あの人は嫌な人だとかあれはすきでないとか表現しますが、人々の中には~で傷ついたと表現する人がいます。この場合の~で傷ついたと表現した場合とは、~で嫌な思いをした、~で感情を傷つけられたと言う意味だと思います。この場合、必ずしも後々まで~で辛くなるとは限らないのでは無いかと思います。

~がトラウマになったと表現をする人がいます。この場合のトラウマとは、今までは何でもなかったもの、場合によっては楽しい物、自分にとって好都合だった物が、ある時を境にして、その~を辛いもの、嫌な物と感じだして、それ以後それを避けるようになる場合では無いかと思います。

~が嫌な物、辛いものであっても、日常生活上その~を避けて生活が出来ますから、日常生活に若干の不都合を生じる場合もあるかもしれませんが、それほど大きな問題を生じません。そうは言ってもその~で辛くなっていたものが、何かあることを境に叉何でも無くなるか、楽しい物になるか、好都合な物に戻る可能性があります。

fecorもトラウマの一つの形です。同じトラウマでも~で辛くなると言う~が学校という建物や学校という概念です。学校に反応をして子どもを辛くするトラウマです。なぜ学校に反応をするトラウマをfecorと言って区別しなければならないかというと、学校を子ども達から取り除くことが出来ないからです。不登校の子供は学校を見たり意識すると、学校に反応をして子どもを辛くするトラウマ=fecorが反応をして子どもをとても辛くします。

学校に反応をして子どもを辛くするトラウマなら、他のトラウマと敢えて区別する必要が内容に考えられます。所が日本の子どもは自由な時間が出来ると学校を思い出してしまいます。学校に行かなくてはならないと思い出してしまいます。学校を思い出さなければ子どもは辛くならないのですから、不登校の子供はゲームやネットなど、享楽的な遊びに没頭して、学校を思い出す時間をなくそうとします。もちろん無意識にです。

学校に反応をして子どもを辛くするトラウマ=fecorが反応をしても単にトラウマが反応をしたのだから、他のトラウマの反応と同じような辛さになるだけで、敢えてfecorと区別する必要が無いと言われるかもしれません。所が日本の子どもはことあるごとに学校を思い出して、fecorが反応をして心が辛くなります。自分で学校を思い出すだけでなく、親からも、学校からも、子どもに学校を思い出させます。

学校を思い出すたびに不登校の子供は心が辛くなるのですが、既に学校を意識して心が辛くなっているところに、親や先生友達などから学校を思い出させられるとそこで叉新たな心の辛さを生じます。ここで思い出して欲しいことは二つの辛さを同時に受けると、辛さには相乗作用があると言う事実です。つまり不登校の子供が只単に学校を思い出した辛さだけでなく、親や先生友達から学校を思い出させられることでの辛さが加重されて、とても辛い辛さになってしまいます。

fecorというトラウマを考える根拠は、fecorが反応する学校に関する物が絶えず子どもの周囲にあって、子どもは気づかなくても絶えずその学校に関する物=登校刺激に反応をし続けているという点が、トラウマと異なる点です。トラウマはトラウマを反応させる物を避けることが出来ても、fecorはその反応をさせる物=学校を避けることが出来ないから、子どもの苦しみは大変に強く、苦しむ時間も長くなり、解決が難しくなるのです。

不登校の原因のfecorは、他のトラウマと異なり、子どもを辛くする登校刺激が子どもの周囲に絶えず有り、学校が子どもを苦しめていると親は気づかないので、それどころか子どものためとして、学校を子ども押しつけることなどから、親が登校刺激を取り除いてあげないために、絶えず子どもにfecorが反応をし続けてしまうと言う違いがあります。