子供の本能と学校

“学校“という言葉に縛られていたように感じます。学校も本能を満たしてくれるモノの一つという事で、ホームスクーリングをしている家庭に関していえば、こどもの本能を満たしていれば、こどもは我慢している訳ではないと解釈します。
逆に、不登校分類1のこどもは、環境に適応できない点で本能が機能していないという事なのか、あるいは、人よりも敏感に嫌悪刺激として感じやすい事なのか、嫌悪刺激に慣れる事と環境に適応する事との間に関係性はあるのか、疑問が出てきてしまいました。

>“学校“という言葉に縛られていたように感じます。学校も本能を満たしてくれるモノの一つという事で、
子供の本能が求める学校とは、子供が理解しようとする知識を与えてくれる場所、そこに年代が近い子供達がいること、です。
学校が作る子供社会に、子供は順応をしようとしますが、子どもが成長をして順応しなくてはならないのは大人社会です。

>ホームスクーリングをしている家庭に関していえば、こどもの本能を満たしていれば、こどもは我慢している訳ではないと解釈します。
ホームスクーリングでは、子供が理解しようとする知識を与えてくれますが、そこに年代が近い子供達の数がいないか、少ないことが問題です。子供社会がないことは、大人になって問題になりません。

不登校分類1のこどもは、環境に適応できない点で本能が機能していない
学校という環境に適応できないという意味だと思います。それでも知識を求める、同年代の子供を求める、与えられた環境に順応しようとすると言う本のは機能をしているのですが、それ以上に学校という環境が子供に辛い思いをさせる、マイナスのエネルギーを与えると言う意味です。

>人よりも敏感に嫌悪刺激として感じやすい事なのか
学校内の何かに、ほかの子どもより敏感に、強く嫌悪刺激として感じる性格を持っているという意味です。

>嫌悪刺激に慣れる
嫌悪刺激に慣れはありません。それどころか相乗効果があります。それ故に嫌悪刺激がある辛い学校に行っていたら、より辛くなり学校を拒否するようになります。それでも学校に行かせていたら、学校内の嫌悪刺激だけでなく、学校そのものが嫌悪刺激(=fecorを学習)になってしまいます。

>環境に適応する事との間に関係性はある
不登校分類1の子供は基本的に学校に適応が出来ません。登校刺激を避けて子供の心が成長をして、学校内にある嫌悪刺激に嫌悪刺激として反応をしなくなったら、ほかの子どもと同じように学校に行かれるようになります。