大阪の放火殺人事件

大阪の放火殺人事件のニュースを読んである心理の文章の一節を思い出しました。それの抜粋です。

「共感とは,ジーンとくる体験で,それは生じてくるものである」と指摘している。つまり,共感とは,治療者(カウンセラー)が患者理解の過程で,その到達点で自然に生じる感覚的体験として浮かびあがってくるものである,というわけである。その感覚は,これまで感情移入とか共感的推理,あるいは投影性同一化(の昇華)などの機制で生じるものとされてきたものであろう。
ところで,(ここが肝腎なところと私は思うのだが),治療者が患者(クライエント)の話を傾聴し,理解をおしすすめながらも,治療者の内部にジーンとくる体験が自然と生じてこないならば,そこには共感や共感的理解がまだ成立していないし,生じていないとみなすべきであろう。そして,その場合,治療者は患者の心をさらにより深く探求し,ジーンとくるまで理解をおしすすめなければならないことになるであろう。実は,その作業こそ臨床家にとって最も重要で基本的な課題であり,心理療法の眼目でもある。

つまり患者がその時持って居る情動を治療者にも生じる必要があるという意味でしょう。もちろん患者と治療者との経験や知識が異なっているので、全く同じ情動が生じませんが、患者の持つ情動に近い情動を治療者が持つ事が共感であり、患者への治療として大切だと言って居るのだと思います。そして同じ文化圏に住む大人なら、同じ言葉で同じ意味合い、同じ情動を生じる可能性が高いですから、ここに書かれているような共感は完全でないまでも可能だと思います。治療者にとって同じ言葉から同じ情動を生じる人に関して、患者が満足する程度に共感が可能だと思います。

共感は患者の辛い心を楽にしますから、患者は心が辛い間は治療者に依存(患者の言葉では治療者への信頼と表現するようです)をするようになります。その依存する程度は、心が辛い患者ほど、そして治療者の共感を患者が強く感じれば感じるほど、強くなります。この依存の度合いを減すには、薬を使って患者の辛さを軽減すると、その分患者の治療者への依存は少なくなり、治療者の対応が楽になります。大人の場合、患者が治療者に依存をしている間に、患者が辛くなった問題点を解決できたなら、患者は治療者から離れて自立していきます。

治療者への患者からの依存か大きいと、依存している間に患者が辛くなった問題点を解決できないと、治療者からの共感が無くなったとき、患者の方では治療者への怒りの対象になる場合があるようです。

これは大人の心同士の心理現象で有り、子供同士の言葉からの共感は不可能に近いし、大人の心から子供の心に共感することも、大人と子供と心が違いますから、大人の方で子供の方に共感できたと感じても、大人の一方的な理解の可能性が高いと考えられます。子供の場合でも共感という言葉を使いますが、その共感という言葉の実体は、傾聴で良いようです。