不登校という言葉

ある不登校の子供を持つ母親からのMSGです。

不登校という言葉から、子供が学校に行かない、行けない、そのことばかりに目がいってしまい、肝心の子供の言葉が大人の判断で理解されたり、子供の心の、声にならない叫びが、親や大人に届いてないのですね。
それは不登校という言葉が良くないのです。日本では学校に行かないと言うこと自体が悪いことと考えられています。それ故に世間が、不登校を悪者にするのがいけないと思います。そんな名前をつけてほしくないと感じます。

不登校という言葉から、子供が学校に行かない、行けない、そのことばかりに目がいってしまい、肝心の子供の言葉が大人の判断で理解されたり、子供の心の、声にならない叫びが、親や大人に届いてないのですね。
病気など大人が理解できる理由で学校に行かないことを不登校と言いません。大人が理解できない理由で学校を長期に(30日以上)休むことを不登校と言います。大人が理解できない理由というのがくせ者なのです。子供なりに学校に行かれない理由があるのに、大人が理解できない場合が多いので、日本では不登校の子供が増えています。

大人が理解できない理由の根本にあるのは、大人の心と子供の心と異なることがあげられます。子供の心では自然な心の動きでも、大人の心では理解できないと、それは理由がないことになってしまいます。その意味で子供特有の心についての研究がなされる必要がありますが、多くの研究者は大人の心を、その心が未熟な場合を子供の心としています。それでは大人で大人社会に順応できない大人の心になってしまいます。

子供の心は大人の心と本質的に異なると考えなければ、子供の心を理解することができません。詳しいことをここで説明しませんが、大人の心で思いついたことは、子供の心ではほぼ間違っていると理解した方が良さそうです。それでも子供が大人の心を受け入れて行動するのは、子供の方で心に余裕があると、大人のために子供が大人の心に妥協をしているのです。妥協をすると子供はとても辛くなりますが、その辛さはほとんど全てで母親、または母親に代わる人=代理母で解消して、子供は大人を利用して成長をしていきます。

子供の方で大人の心を受け入れる心の余裕がない子供は、大人に対して声を上げたり、問題行動(子供の声にならない叫び)をするようになります。すると大人は子供の声を押さえつけようとしますし、問題行動を押さえつけようとします。もちろん、大人の内でも母親は、子供が上げた声や、問題行動を解決してあげようと試みますが、母親の心は大人の心ですので、母親の理解の理解からの行動は子供の辛さの解決になりません。

>それは不登校という言葉が良くないのです。日本では学校に行かないと言うこと自体が悪いことと考えられています。それ故に世間が、不登校を悪者にするのがいけないと思います。そんな名前をつけてほしくないと感じます。
学校に行っていないという意味で不登校という言葉を使うのでしょう。その根底には、子供が学校に行かないことは良くないことという概念があります。学校に必ずしも行かなくて良いというような欧米の文化では、不登校に相当する言葉はないようですが、最近は学校に行こうとしなくなる子供が増える傾向にあるようですので、最近になっていろいろと不登校に相当する言葉を作ったり、対応法を考えているようです。

子供が学校に行こうとしないという心の動きを尊重して、私は登校拒否という言葉を使いたいです。しかし子供が学校を拒否するという概念を日本社会は認めないのです。子供が拒否をすると考えたとき、日本では学校が悪いと言うことになるからだと思います。現実に日本中で不登校という言葉が通用しているので、私もやむを得ず不登校という言葉を使っています。その代わりに不登校分類という概念を提出しました。