先が見えない

以前は不登校になってしまったことを、何でなんだろう、何が悪かったんだろうと、後悔や反省の気持ちをどこかに抱えていたのですが、時間とともに、こどもの成長とともに、不登校になったことは、不運だけど、不幸ではないと思うようになりました。そのまま学校に拘って行かせていたら、不幸になっていたんだなと思います。今は先のことが笑えるぐらい全く見えないです。それでもまあいいかと思っています。

>以前は不登校になってしまったことを、何でなんだろう、何が悪かったんだろうと、後悔や反省の気持ちをどこかに抱えてい
子どもは、新しいことを学ぶのが好きだし、子どもの集団を好みます。子どもは与えられた環境に順応をしようとします。母親を大好きだから、母親の思いを叶えようとします。これは子どもが学校に行きたがる本能ですから、それ以上の理由はありません。
子どもは動物ですから、その子どもにとって楽しいことを求めて、嫌なことから逃げようとします。
この二つの本能から子どもが母親から離れて生活ができるようになると、子どもは子どもの集団を求めるようになるし、そして保育園や学校を求めるようになります。
しかし多くの大人はこの子どもの本能に気づいていません。多くの大人はある年齢になったら保育園に行かせるし、ある年齢になったら、小学校に行かせます。それができないことがいると、それは問題だと、正さなくてはならないと考えてしまいます。
日本を含めて多くの国で、子どもの年齢から子どもの能力を推測しますが、同じ子どもの年齢でも、子どもの能力にはかなり幅があります。特に今の保育園や学校からの要求を叶えるだけの能力がない子どもがいた場合に、子どもはその本能から保育園や学校に行きたくても、保育園や学校からの要求に耐えきれなくなって、辛くなって、保育園や学校に行かれないか、行っても他の子どもと同じような行動ができなくて、孤立してしまいます。その子どもなりの成長ができなくなり、母親の元に逃げてしまいます。母親の元に逃げて、その子どもなりに成長をして、子ども社会の幼稚園や学校に再挑戦しようとします。
現在の社会は年齢で区別をしてしまいますから、ある年齢でできなくてはならないことを決めて子どもに要求をします。それは現在の社会の常識になっていますから、子どもが母親の元に逃げてきても、母親も社会常識に従った要求を子どもにしてしまい、子どもは母親のそばですら成長ができなくなり、心がとても辛い状態になり、荒れたり問題行動をするようになります。

この母親の悩みは、この子どもに関する常識と実際の子どもの心の成長の度合いの違いから生じています。母親にこの子どもと常識との違いに気づけと言われても、負担子どもと良い関係で過ごしている母親にはとても難しいことのようです。気づくことが難しいです。母親もついついこれぐらいのことができないのと言う怒りになってしまいます。母親が常識が強く存在して、知的であったり、母親の心に子どもの心を感じる余裕がないときには、どうしてもこのような発想になってしまいます。

母親の中には、子どもがこの年齢になっても母性が機能をする母親がいます。そのような母親は子どもが母親の希望することができないことを気づくと同時に、何か子どもに辛い物があるから、できないことをできるようにする前に、子どもの辛さから子どもを守ってあげようとする母親がいます。そのような母親の元の子どもは最初に自分の心を元気にして、その後遅れて母親の常識的な希望を実現しようとします。その遅れてがかなり時間がかかる、場合によっては年のオーダーがかかるので、社会はそれを許さない傾向にあるようです。でも母親だけはそれを認めてくれるようです。

子どもの成長が年のオーダーで遅れて始まっても、大人年齢になったときには他の子どもに追いついてますが、それを信じて待てる音がなきわめて少ないという事実があります。多くの大人は子どもの目の前の遅れが一生続くように感じてしまうのです。

>たのですが、時間とともに、こどもの成長とともに、不登校になったことは、不運だけど、不幸ではないと思うようになりました。そのまま学校に拘って行かせていたら、不幸になっていたんだなと思います。
このことを申し上げています。

>今は先のことが笑えるぐらい全く見えないです。それでもまあいいかと思っています。
常識的な成長を子どもがしていても先が見えないのは同じです。常識的な成長をしていても子どもの先が見えないから、他の子どもに成績面で負けないように、子どもを塾に入れたりしていますが、それは単に親の自己満足であり、それでいても先が見えないのは同じです。