なんとしても卒業をしたい

<質問>
子供がなんとしても卒業したいと挑戦をしているときに、「学校に行くな」と子供の気持ちを否定しても問題ないのでしょうか?
確かに学校内で辛いことが生じたならこの言葉は救いになるかもしれませんが、それなら、「学校に行くな」と否定的な言葉をかけなくても、「いつでも、辞めていいからね。」と子供が挑戦する気持ちを否定せずに逃げ道だけを用意した方がいいように思うのですが。
全日制の高校を辞める時にひどく反対してしまい、子供の心を傷つけてしまいました。
通信制に転籍して、しばらくしてから自分の間違いに気付き、今度はなんとか助けてあげたいと思い、学校を辞めるようにと働きかけてしまい、次こそは頑張ろうと思っていた子供の気持ちをまた傷つけてしまったように思います。
辞める話をすると、「もう否定されたくない」と言われました。
それでも、分類3に間違いなかったので辞めさせようしてしまいました。
色々なことに傷ついて不登校になりました。それなのにまた、卒業したいと頑張っているのを「行くな」と否定してしまうことはよくなかったのではないでしょうか?。
分類3で挑戦しだしたら否定しないといけませんか?

<回答1>

>子供がなんとしても卒業したいと挑戦をしているときに、「学校に行くな」と子供の気持ちを否定しても問題ないのでしょうか?
まず考え方です。子供の心は大人と異なって、3つの心が独自に機能をしています。其れは意識の心と、習慣の心と、情動の心です。ここでは習慣の心はそれほど大きな意味を持っていないので、無視をして、意識の心と情動の心とだけで考えていきます。つまり意識の心だけを考える大人の心と、意識の心と情動の心を考えなければならい子供の心と異なるのです。このことを何回もこのブログで述べてきています。

次に子供の言葉は意識の心から成されます。子供の行動は情動の心から成されます。大人のように言葉に沿って行動をすることが子供には出来ないと考えた方が間違いありません。そして「なんとしても卒業したい」は子供の知識の心からの言葉です。挑戦は情動の心の接近系です。心のエネルギーです。学校に向かう心のエネルギーが大きいと、母親が「学校に行くな」と言っても、子供はこの母親の言葉を否定として理解しないで、母親を馬鹿にして、学校に行き続け、行かないまでも卒業のための挑戦をし続けます。子供の学校に向かう心のエネルギーが小さいと、子供は心のエネルギーを浪費することなく、卒業とその子供なりの距離を置いて、その子供なりの挑戦をしてくれます。子供の心のエネルギーに従って、その子供なりに子供が苦しまないで答えを出してくれます。

母親の「学校に行くな」という言葉は、日本の子供がほぼ間違いなく持っている学校に行かなくてはならい、その学校を卒業しなくてはならないという知識を否定していますが、子供の本心である情動を結果的に肯定しています。大人とは違って子供の場合、子供の本心である情動を肯定してあげることが、子供の心のエネルギーを高めます。子供の学校に向かう心のエネルギーが十分に大きいと、母親の「学校に行くな」と言う言葉を子供は無視できるのです。ところがこの言葉を父親が言った場合、あくまでも一般的ですが、父親の言葉に母親よりも強く子供く反応をする傾向があります。子供の知識の否定が禁止になってしまう傾向があります。其れが良い場合と悪い場合と、子供の心のエネルギーの状態で異なりますし、一般に父親は子供に「学校に行くな」とは言わない傾向にあります。もし言ったとしたら、それなりの知識を持った父親です。