韓国のいじめの厳罰化

いじめという言葉にはいじめるといじめられると二つの意味合いがあります。今日NHK7時のテレビのニュースで放送された韓国のいじめの厳罰化は、いじめる子供への厳罰化です。確かにいじめられる子供は不幸ですが、いじめる子供も不幸だと言うことを韓国や日本、その他の先進国では気づいていないようです。大人のいじめる、いじめられるも、ほぼ同じ心の動きから生じていますが、大人には理性があり、理性的な心の辛さの解消法が可能なので、以下の議論は必ずしも成り立ちません。

大人でも子供でも、心が辛くなったとき、その心の辛さを何かで解消する必要があります。解消出来ないと日常生活が出来なくなります。その解消の仕方が、楽しいことをすれば良い(大人では色々な方法がありますが、子供では日々の生活が概ね規定されていますから、楽しむのに大人のような色々な方法はありません。制限されています。それでもゲームやネット、漫画やテレビなどありますが、教育という観点で制限されていて、十分に心の辛さを解消されていない場合が多いようです。)のです。大人には色々な形でそれが可能ですが、子供では制限があります。

子供の場合、学校で子供の心が辛くなっている場合が多いようです。その辛さを十分に解消出来ないとき、その子供なりに学校内で遊ぶ方法を求めますが、それも教育と言うことで制限されています。その際に、子供同士で遊ぶ方法をとることは許されていますが、他の子供を使って遊ぶ方法を選択する子供が出てきます。他の子供をからかう(からかう子供はからかうことで楽しめるのですが、からかわれた子供はいじめられたと感じるのです)方法を選択する子供が出てきます。

つまり、学校内で心が辛くなる子供が出てくることは仕方が無いことです。その心が辛くなった子供の心に関して学校がその心が辛くなった子供の心の辛さを軽減しようとする対策が成されていないか、不十分なために、学校で心が辛くなった子供が他の子供で遊ぶ、それもからかうような形で遊ぶ子供が出てきます。このこと自体も、色々な性格の子供が集まる学校では仕方が無いことです。しかし今の学校は子供の成績を上げることに一生懸命で、学校で心が辛くなる子供が出てくることを配慮していないという問題点があります。それでも配慮し始めている学校も出てきているようですが、その考え方が大人の心の立場からの配慮であり、子供の心の立場からの配慮で無いので、その効果が期待できないのです。次は子供の心の立場からの、いじめる子供の心を説明してみたいと思います。