韓国のいじめの厳罰化 7

同年代の子ども達がグループを作って、何かをして遊ぶことはごく自然なことです。心が元気な子供では、仲間同士を思いやって、楽しさを求めて、遊ぶことが出来ます。

心が辛い子ども達、学校が楽しくない子ども達では、そのグループで楽しく遊ぶために、色々と子供なりの工夫をする傾向があります。特に今の学校内では子ども達が楽しく遊ぶ遊び道具がありません。そこでそのグループの一人を利用して、その子ども一人を遊び道具にして楽しむようになります。これが多くのいじめの始まります。具体的ないじめについて、ここでは述べません。

子供である限り、遊びは子供の生活に絶対に必要な物です。特に心が辛い子供では、遊びが無いと心が辛くて日々の生活が出来ません。特に心が辛い子供では刺激に強い遊びを求める傾向があります。その結果、グループを作りやすいし、そのグループの中で順位が出来て、服従関係が出来てくるようです。そして順位の上の子供が順位の下の子供を利用して遊び始めています。遊ばれている子供は、初めのうちは楽しめていても、だんだん辛くなり、いじめと感じるようになってきます。遊ばれている子供は辛くなってもそのグループから抜け出せなくなっています。

このようにいじめは心が辛い子供が楽しむ物がないとき、やはり心が辛い子供を利用して遊ぶ遊びですから、いじめをしている子供はいじめをしている認識はありません。いじめられている子供が苦しめば苦しむほど、いじめている子供は楽しくなるようです。大人で言うストレス発散を仲間の中で一番弱い立場の子供を利用してして居ると考えて、考え方は間違っていません。

このいじめを大人から阻止されたら、いじめは大人の目の届かないところで成されるようになります。多くの場合、いじめはより陰湿化してしまうようです。ですから、いじめを厳罰化すると言っても、いじめは大人の目の届かないところで成されますから、進行しているいじめを阻止することは出来ません。いじめが行き着くところまで行き着いて、いじめが大人の目からでもはっきりとしたところで分かるのですから、その時からいじめている子供に厳罰を与えたとしても、それは手遅れです。