昔も心が辛い子どもは居ました。しかし其れは一時的に心が辛くなる心が辛い子どもでした。一時的に心が辛くなるだけでしたから、心が辛くないときに、自分の辛い心を癒やせたので、大きな社会問題にはなりませんでした。
現在の心が辛い子どもは、ほとんど全ての子どもに、学校に反応をして子どもを辛くするトラウマ=fecorがあります。このfecorがあることの問題点は、このfecorを反応させる登校刺激が家の外にも、家の中にも、そして子ども自身の中にもあるという現実です。fecorが反応をすると、つまり登校刺激があると、子どもはその登校刺激のないところに逃げないとなりません。fecorが反応しないところに逃げないと、子どもは暴力的に荒れたり、事件などの問題行動をしたりします。そのような子どもの他に、これらのことができなくて、自分の心を殺してしまう=精神疾患として強引に薬を飲まされてしまう、場合によっては命を失ってしまう場合もあります。
ところが親を含めて多くの大人はfecorの意味を、登校刺激の意味を知りません。子どものためと考えてfecorで苦しむ子どもに敢えて登校刺激を与えてしまっている場合がきわめて多いのです。常識的には子どもの将来を考えて、子どものためと考えて、登校刺激を与えているのですが、心が辛い子どもにとって其れはいじめや拷問のような物なのです。でも、大人は其れを信じてくれないのです。
心が辛い子どもは、何かその子どもなりに享楽的なことに没頭して登校刺激を交わすしか方法がないのですが、其れも大人は大人の常識から許そうとはしないのです。享楽的なことに没頭できている間は、心が辛い子どもでも普通の子どもに戻れますが、其れ以外の時は登校刺激を受けて、fecorが反応してその子どもなりの辛さに苦しみ続けているのです。その姿が心が辛い子どもの姿です。