心が辛いのは他の人が想像する辛さと異なる

>こころが辛いのは、きっと、多くの人が想像する辛いとは、何か違うのではないかと感じています。もちろん、不登校児に自分がなったわけではないから、はっきり分かることはないけれど、普通の大人が思う辛いとは、かけはなれているのではないかと思うのです。言葉で表すのが難しくて上手くかけません。
ここで申し上げることを、御母様方は必ずしも理解しなくて良いのですが、その方面を研究している物として、お話ししてみたいと思います。

其れは感情です。人や動物に感情があることはきっと理解していただきたいと思います。感情は人では意識できます。意識できない感情に相当する物が、感情以外にもあります。この二つを総合して、情動と言います。

情動とは動物が生きて子孫を残すための能力と、危険から身を守るための能力の二つに分けることができます。生きて子孫を残すための能力を情動の接近系、危険から命を守るための能力を情動の回避系と言います。この情動を意識した場合を感情と表現しています。具体的な感情表現のことばはいろいろありますので、ここではこれ以上触れません。ここで辛いということばを使われていますが、辛いという言葉は情動の回避系を意識した感情を表した言葉の一つです。情動の回避系を意識した感情を表す言葉はたくさんあるので、それらの言葉を代表して、辛いという言葉を私は使っています。

情動を意識したときには感情と表現しますから、感情として言葉に表現できない情動がたくさんあります。それ故に
>言葉で表すのが難しくて上手くかけません
と表現なさるのは、感情として言葉にできませんという意味で、感情として表現できない情動の話に踏み込まれているという意味です。

ここで未だ気づかれていないというか、情動自体が気づかれていないことがあります。勿論その内容は感情でも成立することです。
情動の接近系(感情として楽しいとかうれしいに相当します)には、慣れがあることです。接近系の情動が続くと、慣れを生じて、情動として反応しなくなる、当たり前になる、無感情になる、という意味です。私たちが普段生活をして何も感じないことが続いていることは、最初は情動の接近系、感情として楽しい、うれしいに相当していたことが、繰り返すことで、当たり前になり、何も意識しないでするようになってしまうことです。
情動の回避系(怖い、痛い、寂しい、嫌だなど)には、相乗作用があることです。回避系の情動が続くと、最初はほとんど辛くなくても、繰り返すことでその回避系の作用は強くなり、だんだん回避系の作用は強くなり、最終的に生きていけないほど強い回避系の作用になります。この事実に気づいている人がほとんど居ないという現実があるのです。

不登校の子どもでは学校内で辛いことがあり、つまり情動の回避系があり、最初はたいしたことが無い辛いことだったので、当人も周囲の人も気づかなかったのですが、その回避系が繰り返すことで、その辛さがだんだん強くなり、不登校の子どもでは学校を見たり意識するだけで、生きていけないほどの辛さになってしまっています。この回避系の相乗作用で、子ども自身も、周囲の大人も、不登校の子どもがなぜ学校で辛くなるのか、全く理解できないのです。

もう一点情動について知っておく必要があることがあります。其れは情動の接近系と回避系とでは相殺作用があると言うことです。つまり接近系があってもその後に回避系が来ると、接近系の意味が無くなってくるか、後から来た回避系が作用をしてしまうという事実、回避系があっても、その後に接近系が来ると回避系の意味が無くなるか、後から来た接近系の作用をしてしまうという事実があります。

進化論という物があります。自然淘汰と同じ意味です。客観的に証明することはできませんが、情動の接近系が動物の生存を許可し、情動の回避系が動物を消滅させています。つまり、情動がその環境にあった動物を生じていて、糖物を進化させて、動物の多様性を作っています。人間でも環境によって異なる人間を作っています。子ども時代は親に守られて自然淘汰に耐えられる情動を持った、すんでいる環境に順応できる大人になって自立していくのです。

続きます。