訂正:大人の心と子どもの心

子どもの心と大人の心と異なるところを纏めにして、4点を箇条書きにしてみます。

1)子供は子供が持っている知識を言葉にできるが、その言葉からの行動はできません。その言葉の内容から行動ができるときとは、報償か罰が関係しています。
*「不登校の子供の言葉は、子供の知識であり、子どもの意思ではありません」* 。

2)子供は子供が感じたことについて、子供の性格(それまで身につけた習慣と感性)から反応をして行動をします。大人もその性格から行動をしますが、その大人にとって大切な行動をしなくてはならないときには、性格からでなく、知識を利用してその人なりの思考を機能をさせて、その結果から行動をします。

3)子供はその情感や習慣、知識に、大人顔負けの物を持っている場合があります。つまり子供がそれなりのトレーニングを受けると、大人の能力、又はそれ以上の能力を発揮することができます。但し、それなりのトレーニングを受けるには、母親又は代理母が存在して、子供の心のを支える(母と子との間の信頼関係)必要があります。
 *「不登校の子供の能力を伸ばそうとするなら、まず母と子との間の信頼関係が最優先」* されます。

4)子供がそれなりの思考のためのトレーニングを受けると、その時子供が持っている経験からの知識や、大人から教えられた知識から、その子供なりに考えることができます。その思考からの結果を言葉にして答えることができます。但しこのような場合は希です。

多くの場合、子供が持っている知識にその子供なりの情緒が伴っています(知識を思い出すと同時に、その知識を得たときに生じていた情感=情動が生じる)から、その結果、その知識が持つ情動の機能が強く子どもの心に働いて(感情的になって)、子供は考えるという思考活動ができなくなります。極めて感情的になっていて、感情的な反応しかできなくなっています。つまり、不登校の子供が知識を利用して考えようとしても、その知識が持っている情動が子どもの心を支配して、考えることができない、思考ができない心の状態になっています。大人の持っている様な理性的にできなくなっています。その時生じていた感情から感情的になっています。

*大人は子供の経験を色々と分析してその答えから、対応法を考えます。しかしそれは子どもの心から言うなら間違っていますから、害はあっても、意味が無いことになります。つまり、 *「大人が考える不登校の子供の心の説明は、ほぼ間違いなく間違っているのです。*] 不登校の子供の心を守るには、今目の前の子どもの心を楽にしてあげることが母親の対応法です。

大人の心と子どもの心の違い(まとめ)

子どもの心と大人の心と異なるところを纏めにして、3点を箇条書きにしてみます。不登校の子供を育てている母親は絶対にこの3つを守って下さい。

1)子供は子供が持っている知識を言葉にできるが、その言葉からの行動はできません。その言葉から行動ができるときとは、報償か罰が関係しています。
*子供が言葉通りに行動した行動とは意識行動ではなくて情動行動です。 *「不登校の子供の言葉は、子供の知識であり、子どもの意思ではありません」* 。

2)子供はその情感や習慣、知識に、大人顔負けの物を持っている場合があります。つまりそれなりのトレーニングをすると大人の能力、又はそれ以上の能力を発揮することができます。但し、それなりのトレーニングを受けるには、母親又は代理母が存在してその心の支えが必要です。
*母親又は代理母との信頼関係が無い限り、子供はその能力を伸ばすことができません。 *「不登校の子供の能力を伸ばそうとするなら、まず母と子との間の信頼関係が最優先」* されます。

3)子供はそれなりのトレーニングを受けると子供が持っている子供が経験した事実、知識から考えることができます。その知識から言葉にして答えることができます。但し子供が持っている知識に情緒が関与した場合、子供特有の情緒の機能が強く働いて、考えるという思考活動ができなくなります。
*大人は子供の経験を色々と分析してその答えから、対応法を考えます。しかしそれは子どもの心から言うなら害はあっても、意味が無いことになります。つまり、 *「大人が考える不登校の子供の心は、ほぼ間違いなく間違っているのです。*] 不登校の子供の心を守るには、今目の前の子どもの心を楽にしてあげることが母親の対応法です。

大人の心と子供の心と違うところ(3)

前回、子供は子供の持っている知識から行動ができないことを申し上げました。

大人が間違えやすいことがあります。子供が学校などで知識の処理法を繰り返し学習した場合、子供はその処理をした知識を言葉にして、文章にして、表現できます。それ故に子供は大人と同じように色々と考えることができると大人は判断をします。それは子供が考えているのではなくて、学習して身につけた言葉の使い方を実行しただけです。それ自体は心が元気な子供ではとても好ましいことですが、心が辛い子供ではよい子を演じなくてはならなくて、より心を辛くします。

しかしその様な子供(特に心が辛い子供では)でもその時得た情報から、子供の本心でなく、既に学習した常識に即した行動の仕方を反射的に行うか、その時生じた感情に反して、相手の大人の思いに即した行動の仕方を反射的にします。つまり子どもの心を辛くする相手から逃れるために、既に身につけた子供の性格(辛さからの回避法に関する性格であり、子供の本心からの性格ではありません)から反射的に行動をします(その意味では、この時の子供は二重人格です)。

子供は大人のような思考を伴った行動の仕方をしません。ところが一部の子供によっては、その時まで自分を守るために練習した考え方を用いて、その時得た情報からの考え方の結果を、それも大人と同じような考え方の結果を、言葉にできます。但し大人との大きな違いは、その考え方からの行動にできません。言葉ではよい子を演じても、行動でよい子を演じるのは難しいようです。

元来子供はその時に持っている子供の性格から反応をして行動をします。大人のように色々と思考を巡らすことは殆どありません。子供がその時持つ子供の性格から行動できないとき、つまり大人の力で子供が持つ性格から行動できないようにされているとき、多くの子供は大人に向かって荒れるか問題行動をします。それが出来ない子供は、過去の経験から大人の希望する考え方を言葉にして(所謂よい子を演じて)、その場をやり過ごそうとします。

 

大人の心と子どもの心と異なるところ(2)

見方を変えると、子供は知識からの行動を見かけ上できるようになるには、知識を(母親から褒められるなどの)情動行動として繰り返し練習することで、その子供が繰り返し練習した知識からの行動ができるようになります。しかし練習をした特定の知識に関して、その繰り返し練習した知識に関する事柄を認識すると、その認識した知識から習慣化された行動を、習慣行動としての行動は無理なくできます。

大人が間違えやすいことがあります。それは、子供が学校などで知識を学習した場合、その知識を言葉にして、文章にして、表現できますが、時には大人顔負けの言葉にして表現できますが、その知識からの行動はそれなりの(情動行動という形で)練習をしないとできないという事実です。子供である限り、知識から子供なりに吟味できて、その結果を言葉で言えても、その結果から行動はできません。

けれど多くの大人は子供に言葉で教えた知識から、*「大人と同じように行動ができると考えて」*います。子供が大人と同じように、知識からの行動ができないと、「何故このような簡単なことができないの」と子供を叱ります。それは子供が悪いのではなくて、子供の心が大人の心と異なることを知らない大人に問題があります。

現在この事実に気づいてきている大人もいます。そして子供が幼い場合には、このような考え方をして子供への対応を考えてくれる大人もいます。しかし子供が思春期ぐらいになると、体も大人並みになりますし、その行動や言葉も大人と同じように使います。

多くの大人はその段階の子供を、大人と同じだと考えて、大人も思春期付近の子供を、既に大人の心が機能をしている大人としての扱いをします。しかし心は子供の見かけと異なって、まだ子供の心の機能なのです。その結果思春期の子供の扱いが難しいという大人が多いようです。思春期の子供に問題行動が多くなる理由の一つです。

大人の心と子供の心と違うところ(1)

*「大人は何かを認識すると、即座に今までの経験から身につけている反応の仕方で反応をすると同時に、必要なら、その認識した事柄を自分の持っている記憶で精査(記憶を吟味してその結果好ましいと判断する答えを出して)して、その結果を言葉や文章にして表現するか、しなくても最終的に行動にして表現します。」* 所謂理性的な行動、意識的な行動です。その際に情動(感情)は意識的に機能をしない状態(意識的に機能をしないことを繰り返すことで、反射的にできる)になっています。

*「子供は何かを認識すると、即座に今までの経験から身につけている反応の仕方で反応をしたり、その時生じた情動(=感情)から反応をし行動をします。子供の持っている知識を言葉にすることが出来ますが、その言葉にした知識から行動をしません。子供の脳の仕組みから、子供は意識行動ができません。」* この反応の仕方を性格からの反応と表現します。

それなりのトレーニングを受けた子供は、認識した事柄を自分の持っている記憶や知識(当然不十分です)から精査をして、その結果を言葉や文章に表現できる子供もいます。しかし、その結果をそのまま行動に表現できません。もし出来たときとは、それはその行動をした結果から、その行動することを褒められることを求めるのか、叱られるのを避けるかの、情動行動です。

 

不登校の弟

次男は14歳、不登校引きこもりです。
母親が夕方にアルコールを飲みながら、「最近、長男の受験、入学の事とかあってバタバタだった。やっと一段落したぞ!ご褒美だ!」と言いました。すると次男が「まだ、オレが残っている。」っとボソッと言いました。
ドキッとして、なんと答えて良いのか一瞬考え、「そう?あなたには何にも困ってない。」しか言えませんでした。それ以上は次男は何も言いませんでした。

<解説>

>母親が夕方にアルコールを飲みながら、「最近、長男の受験、入学の事とかあってバタバタだった。やっと一段落したぞ!ご褒美だ!」と言いました。
母親の気持ちはよく分かるのですが、この母親の言葉は次男にとってとても強い登校刺激になったはずです。

>次男は「まだ、オレが残っている。」っとボソッと言いました。
次男は登校刺激にそれほど強く反応をしていません。但し、長男と自分と比較していたのでしょうか、次男には自己否定が弱いけれどある様です。母親はもっと登校刺激を次男に配慮すべきでした。それと同時に次男の自己否定にも配慮する必要がありますから、母親の共感とスキンシップがもっと大切です。その共感の言葉についても、大好きだよ、今の次男で良いよ、と言う言葉をもっと御願いします。

>ドキッとして、なんと答えて良いのか一瞬考え、「そう?あなたには何にも困ってない。」しか言えませんでした。
母親は次男の言葉の意味を次男の心に沿って理解できなかったけれど、次男の心を肯定する言葉をかけていますから、結果的に悪くない対応でした。とっさにこの言葉が出たことは、母親が今の次男の姿を心底認めているから出た言葉だと思われます。けれど、共感とスキンシップを忘れないでください。今の次男で良いよと言う言葉を絶対に忘れないでください。

>それ以上は次男は何も言いませんでした。
次男はきっと心がほっとしたと思います。それまで長男と自分とを比較していたようですが、この母親の言葉は次男の今の姿を認める言葉になっていていますから。

過去を謝るだけで

心に沿った謝りかたというのはどういうことでしょうか。
娘が在学中につらかった時に私がわかってあげられなかったこと、通信制に転学したことを謝ることでしょうか?
真面目に話をしようとすると娘は嫌がります。本心から向き合いたいと思っていても私自身逃げてるのかなと言う気持ちもあります。
でも口に出してちゃんと伝えるべきですか?
日常生活の中で今までできていなかった傾聴、共感をしてそれが謝ることにはつながってはいかないですか?

<解説>

>心に沿った謝りかたというのはどういうことでしょうか。
>娘が在学中につらかった時に私がわかってあげられなかったこと
具体的に謝るのは大人の心についての対応の仕方です。子供の心から言うなら、具体的な過去の話を聞くと、過去の辛かったことを再経験をしてかえって子供の心を辛くします。子供の心について言うなら、過去の具体的な話でなくて、母親が子供が子供の心の辛さに気づかなかったという事実だけを謝れば良いです。

通信制に転学したことを謝ることでしょうか?
あくまでも可能性ですが、娘は通信制に転学することを求めていなかったと思われます。ですから、謝るだけでなく、退学を進めるのが良いです。

>真面目に話をしようとすると娘は嫌がります。本心から向き合いたいと思っていても私自身逃げてるのかなと言う気持ちもあります。
子供は過去の辛いことに触れると、辛さの再経験になります。この点が大人と異なります。過去のことに触れないでください。今から傾聴(お子さんが過去のことを言っても、その内容に触れないで、謝るだけです)と共感とスキンシップです。

ただ、登校刺激を取り除くことは不登校問題の第一歩です。娘が言葉にしなくても、登校刺激を取り除く、すなわち通信制にも行かせない対応が必要なはずです。

>でも口に出してちゃんと伝えるべきですか?
上記の様に、具体的な話をしないで、謝るだけで良いです。

>日常生活の中で今までできていなかった傾聴、共感をしてそれが謝ることにはつながってはいかないですか?
子供は今が大切なのです。今のお子さんを大切にすると、子供の方から色々と辛かったことを話してくれます。それを傾聴するだけです。