文化社会と競争 1

ある方からの言葉を紹介し、それに対すコメントをしてみます。

>世の中には沢山辛い心を持ったまま生きている人が多いですよね。一般のサラリーマン、商売をしている人、そして政治家、教師、医師、芸能人・・・皆、忙しすぎて時間の余裕もなければ、心の余裕もない。なにか、ギスギスしています。(私もでしょうか)
この人々の姿は、日本ばかりで無く、文化的な国家では何処でも見られと思います。文化的な国家では、その文化を楽しめますが、それと同時に人々との間の競争に勝って、その文化的な地位を維持する必要があります。そうしないと社会の中で成功をしないばかりか、脱落してしまいます(この場合の成功とは経済的に、社会的に地位を得るという意味です)。現代の文化社会は社会的な地位を得るための競争社会ですから。

地位を得なくて良いと言うのなら、競争をしなくて良いですが、他の競争をしている人の影響を受けて、競争をしない人はその時に持って居た知己、現状維持も難しくなっているのが現在です。所謂社会的な脱落者になって、そのことによる辛い思いをしなくてはなりません。多くの人は競争も嫌だけれど、社会的な脱落者になるのはもっと嫌だと思って、社会の中で競争を続けています。これはどの様な文化国でも、国家体制の国でも、すべて同じです。文化的に進歩すると言うことと、大人が競争(その程度はその人の置かれている立場で頃なります)しなくてはならないと言う事実は平行して進んでいきます。


>そして、幼い子を持つ母親。子どもが少なくなってきているにもかかわらず 、この近年の不登校児童の多い事。と思ってしまいます。
大人の競争を子どもに持ち込んでいるからです。子どもは競争して良い子どもと、し手は行けない子どもと、その中間に位置する子どもといます。子ども達について上記の大人の論理は成り立ちません。子どもは競争力をつけるために心身共に成長をしている段階だからです。

母親にとって子どもに競争力を持たせて社会に送り出す役割、本能を持って居るからです。その競争力を持たせようとして、かえって競争力を奪ってしまっている(例えば不登校)場合が、現在増えてきています。子どもに敢えて競争力を持たそうとしなくても、子どもが素直な成長をしていれば、子どもが持つ本能から、この社会に向かって成長をする過程で、この競争力を人から身につけていきます。

敢えて親が子どもに競争力をつけさせる場合については次回にします。