逃げ道が新たな挑戦を 2

「逃げ道が新たな挑戦を」で

>心が辛い子どもでは、その子どもの心を辛くしているものは殆どすべてで学校です。
という一行に、多くの人は納得しないと思います。しかしこの事実を大人が理解しない限り、子供の不登校問題、その他の子供が生じる社会問題を解決できません。人間を含めたほ乳類は、嫌悪刺激=その個体を辛くするものから逃げられたら、嫌悪刺激はないのと同じになります。それどころかその後その嫌悪刺激に遭遇しない方法=嫌悪刺激を回避する方法を学習します。人に限定するなら、その嫌悪刺激からの回避法が新たな知識を生じて、その人の生命力を、社会順応性を高めます。

それに対して嫌悪刺激から逃げ出せなくて、いつまでもその嫌悪刺激にさらされ続けると、その人は荒れたり問題行動をしたりしますし、心の病の症状を出すようになります。つまり嫌悪刺激はあってもそれから逃げられたら、かえってその人の能力を高めるという効果があります。それを学習と呼びます。つまそのひとのの雨緑を高めることになります。つまり 「嫌悪刺激とは、あってもそれから逃げ出せるなら」 嫌悪刺激はあっても良いし、かえってその人の知識能力を高めます。

義務教育の国での子供は、学校から逃げることができません。学校内に嫌悪刺激があってもその嫌悪刺激から逃げられません。そこが今の学校の問題点です。学校の運営者、つまり教師は学校内に嫌悪刺激がないと信じていますし、ないように努力をしています。そして多くの子供では学校内に嫌悪刺激がありません。ところが少数の子供には学校内での謙を刺激を生じてしまいます。それは学校が子供の集団ですから、仕方ないことです。

子供が学校内の嫌悪刺激から逃げられたら、学校内での嫌悪刺激はその子供にとって嫌悪刺激でなくなりますが、嫌悪刺激を経験したと言うことから、それ以後その嫌悪刺激を経験しないようなその子供なりの工夫をするようになります。その子供なりの知的能力を含めて、生命力がある子供として育っていけます。

このような意味で、学校に嫌悪刺激があっても良いけれど、その嫌悪刺激から子供が必ず逃げられる必要があります。大人がその嫌悪刺激をなくしたら、子供は嫌悪刺激を受けてそれから逃げ出すという大切な経験をしないことになります。それはかえって子供にとって不幸なことです。逃げ出せる限り学校で嫌悪刺激を経験した方が、子供には良いのです。

続く