池袋暴走事故裁判

https://news.yahoo.co.jp/articles/41510993b6218be3cb9ceb19cd6435b091a842cc

ほんとうに老人を理解するのに難しさがあります。もちろん老人にも程度がありますが、元森オリンピック組織代表のように、見かけ上また区普通の大人でも、昔身につけた知識がしっかりと根付いていて、何かの拍子に出てしまったのでしょう。若い人だとこのような非難されるような思いは理性で押さえつけて口外しないものなのです。森さんも平時はそうだったと思います。それが理由はわかりませんが、昔の女性蔑視の発言をしてしまいました。会見で謝ってもしっかりと脳の中にこの女性蔑視の知識が存在していることに変わりありません。
謝罪会見の後でも、自己弁護に明け暮れて、女性蔑視の知識がわかったような姿はありません。

ここで申し上げたいのは、老人になると、何十年間も持ち続けた知識はそう簡単に変わることはないと言うことです。それに反して新しく得た知識は簡単に忘れてしまいます。忘れてしまうのはないのと同じになってしまうのです。そのために社会の変化を好みません。若い人だと忘れても脳の中に残っています。何かの拍子に思い出されます。ところが老人になると脳の中に何も残っていないのです。ですからないことを思い出してと言われても、それはその老人にとって拷問のようなものです。

この飯塚被告についての裁判は、その意味で飯塚被告についての拷問のようなものです。もちろん事実は事実ですし、客観的な事実によって裁判はなされなければならないですが、飯塚被告の納得を得ることは不可能なのです。繰り返しますが記憶のどこかに残っているのならまだ記憶を呼び起こすことができるのですが、老化から記憶に残っていない(短期記憶ができない)ようです。ですから飯塚被告が納得する判決は不可能だと言ってよいと思います。

現実に脳についての老化という障害者が、凶器となる自動車を運転していた事実は事実です。でもそれをあらかじめ知ることはできません。特に飯塚被告のように輝かしい経歴を持って、自分の言動に揺るぎない自信を持っている人には、不可能だと思います。もし飯塚被告がエリートでなかったなら、運転する姿はもっと違っていたと思います。

あくまでも私の経験ですが、私を含めた地方が始まった老人には、よほど印象が強いこと以外の新しい記憶を作ることができません。過去の知識と、そのとき記憶に残った強烈な部分との記憶から、それらを自分なりに納得できる物語を作ることになります。飯塚被告の話はまさにエリートの飯塚被告なりの作話なのです。その作話の内容を事件と絡めてまじめに考えても、おかしなことになります。あくまでも客観的な事実から事件の経過を再構築する必要があります。