対人恐怖

学校でのいじめにより対人恐怖になって学校に行けなくなってしまった子供も、家に引きこもらせてゲームやYouTubeをやらせておけば対人恐怖が消え、また学校へ行けるようになるんですか?

<解説>

この短いMSGには注目すべき言葉として、学校、いじめ、対人恐怖、学校に行けなくなって=不登校に注目必要があります。そして、大人がこの問題を考えるとき、大人の心と子供の心と大きく異なっていることを踏まえて考える必要があります。

学校は子供の本能から行きたいところです。その学校が恐怖の条件刺激となった、お子さんが学校に反応をして子供を辛くするトラウマ=FCRを持ってしまって、学校を見たり、学校を意識することで、体中に辛さを生じて、学校に行かれなくなっています。つまり学校に反応をするトラウマを持っています。トラウマを反応させる物は学校や勉強=登校刺激です。

この学校や学校を意識する勉強に反応をすることは、極よく見られる不登校の共通しています。対応法はお子さんに一端学校を忘れさせて、学校を思い出さないような遊び、多くの子どもではゲームやネットに没頭させることで、時間がかかりますが、不登校問題の解決の方向に向かいます。頂いたMSGでご指摘の通りです。

いじめの問題です。子どもはいじめを一回受けたぐらいでトラウマを学習しません。何回も何回もいじめを受けて、その結果辛さの相乗効果を生じて、いじめる相手の子どもに、いじめの場の学校に、恐怖の条件刺激を学習して、トラウマを学習してしまいます。いじめる相手に、いじめの場の学校に、トラウマを反応をさせるようになります。いじめる相手がいなくなっても、いじめの場でそのために恐怖の条件刺激になった学校がある限り、学校を転校しても、子どもは学校でトラウマを反応させて、学校に行かれません。いじめが原因で子どもが不登校になっても、いじめを無くするだけでなく、学校に反応をするトラウマが反応をしなくなるような対応が必要です。

何故いじめられる子どもはいじめが辛いのに、何故いじめから逃げ出せないのでしょうか?それはいじめられている子どもの親が、自分の子供の心を無視して、いじめられている子どもをいじめの場所である学校に押し出しているからです。いじめられている子どもは何回も何回も母親にそのいじめの辛さを訴えているはずです。しかし母親は子供を学校に行かすことを最優先して、子どもの訴えを無視し続けていて、子どもがいじめで耐えられないぐらいに苦しみだして、学校に行かれなくなると、そこで始めて子どものいじめを学校に訴えるようになります。母親は何故子どもがいじめを訴えてくれなかったのだろう、何故学校がいじめに気づかなかったのだろうと、子供を責め、学校を責めますが、その前に子どもがいじめの辛さを訴えていたのを無視していたことに気づかないのです。子育てはこうあるべきだという常識にとらわれていていると、子供の心の辛さに気づきにくいのです。それはある意味で仕方が無いことで、だからといって母親が悪いわけではありません。

勿論学校がいじめをする子どもを作り、いじめられる子どもを作ったことは事実ですが、学校は全くそれに気づいていません。いじめられる子どもに責任を求め、いじめる子どもに責任を求めています。学校は100年いじょの長年同じあり方が続いていて、その学校のあり方に殆ど疑問を感じていないのです。学校としてはいじめる子どもが悪い、いじめられる子どもが悪いとするのが一番楽な対応法です。それでもいじめで死ぬ子供が出てきたときには、学校は慌てますが、そのいじめで自殺した子どもの責任だけを求めて、学校は一校に変わろうとしないのです。学校が変わることを学校は、政府は求めていないからです。子どもに責任を求めるのが極めて簡単だからです。大人はそれで納得しますが、子供の心は全く別なのです。

いじめる子どもを無くすることを大人は考えます。確かに学校内が楽しければ子どもはいじめをする必要が無いのです。学校が子ども達に楽しいと判断して居ることの多くは子ども達の管理であり、子ども達には辛いのです。子ども達への管理が辛いと、子どもの中にはその辛さを、他の子どもを利用して遊び、辛さを解消をしようとする子供が出てきます。それがいじめる子どもです。ですから、学校はいじめる子どもの問題点を色々と指摘しますが、いじめる子どもは学校の辛さを子ども同士で遊ぶことで、いじめをすることで解消をしようとしているのです。ですから、いじめる子供を幾ら責めても子どもの立場から言うなら、何故楽しく遊んでいるのに、それを問題だと指摘されるのかその意味が分かりません。大人から子どもに与える楽しさとは、子ども達が求めている楽しさと異なるのです。学校内での遊びが大人の論理で制限されて、子供の心から言うなら楽しくない、ことに一番の問題がある可能性があります。

対人恐怖症は子どもの場合と大人の場合と異なります。子どもはその本能から同年代の子どもを大好きなのです。その子どもの対人恐怖は、登校刺激、いじめる相手、登校刺激を与える大人についてです。大人のようなどの人に対しても生じる対人恐怖ではありません。つまり登校刺激が無くなると、いじめる相手がいなくなると、子どもはその本能から対人恐怖はなくなります。つまり大人で対人恐怖と気づく場合には子どもはその人から恐怖の条件刺激を感じているという意味です。