大人の心、子供の心

楽しく遊んでいるだけで問題と指摘される意味が分からないのなら、なぜ子供は大人に見つからないように、教師などから隠れたところでいじめを行うんでしょうか?悪いこと、いじめをしているという自覚があるからでないですか?
登校刺激がなくなり、いじめる相手がいなくなると子供の対人恐怖がなくなるというのは、つまり不登校にさせて、先生の不登校対応法をすれば子供の対人恐怖はなくなるということですか?
いじめる相手から離れるのは良いことですが、子供を不登校にさせて、何年も家に引きこもらせて、ゲームやYouTubeに没頭させていれば、外に出たり、家族以外の外部の人と関わるのが余計に怖くなってしまうんではないでしょうか?

<解説>

この問題を考えるとき、大人の心と子供の心と大きく異なることを踏まえておく必要があります。その結果大人が考えることを子どもは考えていませんし、考えているように見えても、知識を言葉にしているだけで、事柄の実体を大人とお何様に持っていません。

いじめに関して言うなら、大人の持っているいじめの概念、いじめの価値観を、子どもは持っていないか、持っていてもそれを言葉に出来る場合もありますが、いじめの実体を子どもは知らないか、大人のように持っていないという、大人と子どもとの違いがあります。つまり、大人がするいじめと、子どもがするいじめとは、本質的におおきな違いがあります。

子どもは学校が楽しければ学校内でいじめをしません。たとえ家庭内でとても辛い状態であっても、学校が楽しければ学校内でいじめをしません。大人から見て子どもが学校内でいじめをしたと理解できるときとは、その子どもは学校が辛くて、学校が子どもの辛さを解消出来なくて、その辛さの解消法がなくて、他の子どもを利用して学校での辛さを解消をした場合(多くのいじめがこれに属します)と、子どもが何かしたときに大人の理解で言ういじめの姿だった場合(この場合は単発的で、繰り返されることはありません)の二つの場合が考えられます。

学校内でのいじめのスタートは、ちょうど漫才のような形で始まっているようです。一方の子どもが他方の子どもをどっつく形と言って良いと思います。どっつかれたほうは楽しくないですから、そこから逃げることが出来ます。そこからどっつかれたほうが逃げたら、いじめはなくなります。ところがどっつかれたほうはその子どもなりの理由で逃げられないので、このどっつき、どっつかれの関係が続き、それにどっつくほうに他の子どもも加わるという形のようです。そのいじめいじめられの姿は漫才のようですから、周囲に居る子ども達には、いじめいじめられている子ども達は集団で楽しんでいる様に見えます。しかしそのどっつきの程度が強くなってくると、周囲の子ども達にもいじめているのではないかと感じられるようになります。いじめている子ども達は漫才の突っ込みのように見えて、いじめられている子どもがぼけの役のように見えるようです。いじめいじめられの子供の集団は漫才を楽しむように、いじめられている子どもをいじめて楽しんでいます。当然大人の持ついじめの概念を持っていません。少しは持っているのかも知れませんが、それよりも自分たちが楽しむことが優先しているのです。

>楽しく遊んでいるだけで問題と指摘される意味が分からないのなら、なぜ子供は大人に見つからないように、教師などから隠れたところでいじめを行うんでしょうか?
子ども達は大人で言ういじめを楽しんでいます。ですから大人はいじめを止めさせようとします。いじめる子ども達はいじめを止めさせられたら、いじめる子どもは大人のようないじめの概念を持っていませんから、悪いことをしているという思いはないですから、楽しみを奪われるだけです。いじめる子ども達の学校内での辛さに耐えなくてはならなくなります。自分たちは楽しんでいるだけという子ども達は、大人の介入しないところでいじめを行うことになります。

>悪いこと、いじめをしているという自覚があるからでないですか?
それは大人のいじめの理解です。子ども同士の間で行われるいじめはいじめられる子ども以外の子どもは楽しんでいます。大人で言ういじめをしているという思いはありません。それはいじめいじめられに大人が介入したときに、はっきりと分かります。いじめていた子どもはなぜ自分が悪いのか、何故楽しみを取り上げられるのか、分かりません。その結果、いじめを止める大人の居ないところでいじめをすることになります。ここで今一度指摘しておきますが、いじめられている子どもがそのいじめの場所に行かなければ、いじめられないのです。いじめられている子どもがいじめの場所に行かなくてはならなくなっているという事実にも注目する必要があります。

>登校刺激がなくなり、いじめる相手がいなくなると子供の対人恐怖がなくなる
いじめられている子どもはいじめる子どもに恐怖を感じています。しかしいじめから抜け出せなくて、いじめる子どもによい子を演じて、少しでもいじめの程度を軽くしようと無意識に反応をします。いじめられている子どもはいじめの場に行かなければいじめる子ども達を恐れる必要がなくなるのです。

>というのは、つまり不登校にさせ恐怖はなくなるということですか?
いじめられている子どもがいじめの場所、多くは学校やその登下校、に行かなければいじめられないのですから、それはいじめられる子どもを学校に行かさない、不登校にすると言うことになります。いじめる子供が居なくなるまで不登校にする必要があります。

>いじめる相手から離れるのは良いことですが
いじめる相手から離れさせないのはいじめられている子どもの親です。いじめのある学校に子どもを押し出している親です。親が学校に押し出さないで、つまり子どもをいじめる子供が居る間は学校に行かさない=不登校にすることで、子どもはいじめから守られるのです。

>子供を不登校にさせて、何年も家に引きこもらせて、ゲームやYouTubeに没頭させていれば、外に出たり、家族以外の外部の人と関わるのが余計に怖くなってしまうんではないでしょうか?
この場合の不登校とは、子供を学校に行かさないという意味です。不登校によく見られる学校に反応をして子供を辛くするトラウマを持っているとは限りません。もしトラウマを持っていなければ(不登校分類2)、そのいじめる子供が居ない学校に通うことが出来ます。転校です。ただし多くのいじめられ続けていた子どもは心のエネルギーを失っている場合が多いので、転校しても必ずしも学校に行き続けられるとも限りません。
しかし多くに場合、親は子どもがいじめを受けていることに気づいていても、それ以上に学校に行かそうとして、その結果いじめられている子どもは学校に反応をして子供を辛くするトラウマを学習してしまいます。登校刺激に反応をするようになって、登校刺激を持つ人と関わることが出来なくなります。