コメントより(2)

世の中には、相当学校が好きで楽しいって子も沢山いるんですよ。
それに、幼稚園保育園のうちから、じっと座って先生の話を聞くのが苦にならない子の方が大半です。
余所の優秀なお子さんを穿った目で見たくなる気持ちは分かりますが、向こう側の人達から見ればただの僻みです。自分の子供の心配だけしていればいいのでは?と、そのお母様に言いたいですね。
また、発達障害の診断が下りたことで親子共々楽になった人もいます。色々です。
私は、正解は一つしかないような物の見方ほど危険なものはないと思います。

<解説>

>それに、幼稚園保育園のうちから、じっと座って先生の話を聞くのが苦にならない子の方が大半です。
幼児から幼稚園児、小学校低学年にかけて、子供はその本能からじっと座っていられない、何かにつけて(ある範囲記限りますが)動き回るのが、子供本来の姿です。

それに対して子供が長い時間じっと座っている場合とは、子供がじっと座っていることでその子供なりの喜びを感じられる(保育士や教師が子供の心を楽しくしてくれる)場合と、子供がじっとしていないと叱られるなどの恐怖を回避する場合と考えられます。日本の子供の場合、前者が多いように感じます(普段から母親と子供との間に信頼関係がある)。それに反して後者の場合、子供は恐怖を回避した後、その時の辛さを何かで発散する必要があります。そのために休み時間があるのですが、子供がその休み時間に十分に辛さを発散できなかった子供は、恐怖を与えた教師などに、程度の差はありますが、恐怖の条件刺激を学習します。

それでも家庭に帰って母親により(信頼関係があることで)学校での辛さを癒やされ、解消されたら、その時学習した恐怖の条件反射は消失してしまいます。

>余所の優秀なお子さんを穿った目で見たくなる気持ちは分かりますが、向こう側の人達から見ればただの僻みです。自分の子供の心配だけしていればいいのでは?と、そのお母様に言いたいですね。
これは大人の心の感じ方なので、ここでは大人の心に範囲に踏み込みません。

>また、発達障害の診断が下りたことで親子共々楽になった人もいます。
現在の精神医学で使っている発達障害とは、トラウマの反応症状です。其れ以外に原因は見つかっていません。ですから、発達障害と診断された子供は医者から誤診をされたのです。誤診をされて母親が楽になったと言うことは、誤診でも母親の悩みが解決したという意味でしょう。そして子供も母親が楽になることで、子供が母親を苦しめていないと感じるという意味で、子供も楽になったのだと思います。但し、トラウマの反応による心や身体的に表現される辛さは続きます。それでも子供は病気だからとその辛さを理解しようとします。

ところが子供の心から言うなら、子供の心が病気でもないのに病名をつけられると言うことは、他の子供と同じように育ちたい子供の心を母親が否定することになります。ところが否定は、特に自己否定は、心に極めて辛い辛さを生じます。その結果、時間をおいて、色々な心の病の症状を出すようになります。

>私は、正解は一つしかないような物の見方ほど危険なものはないと思います。
大人の心と子供の心と異なることをご存じないから、このような意見になるのだと思います。
大人の心への対応は、文化的な影響を大きく受けます。その結果対応法を選ぶ場合には、その選ぶ人の経験が、知識が大きく影響をします。つまり正解は一つでないと言う意味です。
子供への対応は、その正解は母親又は代理母です。その点が大人と大きな違いです。この点は後ほど述べてみたいと思います。