子どもを観察した結果

ある方のMSGの一部です。

**ちゃんが生まれてきてくれてお母さんは親孝行ができた。おばあちゃんにとってはたった一人の孫だから、ありがとう
子供は、そりゃ喜びますよね。
親も、祖母も、自分の存在を喜んでくれているのだから。
でも、子供がいて幸せと親が思ったり、孫がいて幸せと祖母が喜ぶのとは全然違います。
自分が親孝行出来て嬉しいと、伝えているんです。この違い分かりますか?
子供の存在や行動が、結果的に自分への評価、それに対する感情に繋がっているという事です。
何でも鵜呑みにする子であれば、自分次第で親の立場や感情が変わる事を学ぶでしょうね。結婚して子供を産む事が、親孝行だと学ぶでしょうね。それが出来なかったら?親には言わなくても、心の中で何かを思うかもしれません。
登校刺激や親子の信頼関係は意味のあるものですが、もう少し他に与える影響もある事に意識をもった方が良いかと思います。
具体的な行動や言動の1つ1つに、○✕を付けるという事じゃありません。でも、意識はベースになり、行動に繋がりやすいという事です。

<解説>

子どもは心身の成長過程にいます。ここでは心の成長過程(ここでは幼児期から思春期過ぎぐらいまでの間)について考えています。その子どもの成長過程を不登校の子どもを観察、対応を重ねた結果からの結論です。殆ど全ての大人が気づいていない事実です。 「大人の心と子どもの心と異なる」 大人も子どもも言葉を使いますが、大人ではその言葉からの行動(意識行動)が可能ですが、子どもでは言葉からの行動ができないと言う事実です。子どもは言葉で考えてその結果を言葉で表現できますが、その言葉に沿って行動ができないと言う違いです。きっと子どもでも言葉に沿った行動がでいると言われる方が多いと思いますが、その場合の子どもの行動とは、子どもの言葉通りに子供が行動することで大人から、特に母親からご褒美がもらえるかの行動か、又はそれをしないと子どもが辛いことになるから、それを避けるための行動です。つまり意識行動ではなくて、情動行動なのです。子どもの行動には意識行動がなくて、情動行動と習慣行動しかありません。それ故に、子どもの心の成長には、本能を含めた情動の接近系と、普段からの生活習慣が重要なのです。そして子どもが学習した知識は大人の心になって意識行動として行動可能になってきます。

>自分が親孝行出来て嬉しいと、伝えているんです。この違い分かりますか?
子どもは親に、大人に、特に母親に依存して成長をしています。それ故に子ども自身の存在が特に母親に認められること自体が、子どもの情動の接近系、喜びです。子どもの心で親孝行できるという知識はあっても、行動にはできません。母親が喜んでいるという事実だけで子どもはうれしいのです。母親が喜ぶ理由は何でも良いのです。母親が喜ぶという子どもの情動から、子どもはそれまでの行動を続け、母親が喜ぶ行動をしようとします。繰り返されることで習慣化と知識になっていく可能性があります。

>子供の存在や行動が、結果的に自分への評価、それに対する感情に繋がっているという事です。
これは大人の心の考え方、知識であり、子どもはその様には考えません。考えさせようと子どもを誘導すれば、知識のある子どもなら、その知識を働かせて、このような言葉を発するかも知れません。しかしその知識からの行動を子どもはできません。
子どもはその場その場で生じる情動(ある意味で感情)からと、それまでしていた性格から反応をして行動をするからです。その意味でその評価は子どもの情動を生じさせ、その情動に基づく情動行動を生じさせるという意味なら、結果的にその通りです。そしてそれが接近系の条件刺激の学習となれば、情動学習となり、結果的にその通りだと思います。

>何でも鵜呑みにする子であれば、自分次第で親の立場や感情が変わる事を学ぶでしょうね。
これも大人の心からの考え方であり、子ども自ら自然とこのように考えることはないです。大人の心からでも、なかなか難しい知識です。このように考えるにはその大人の情動、習慣、知識に、(きっと無意識でしょうが)注目する必要があります。

>結婚して子供を産む事が、親孝行だと学ぶでしょうね。それが出来なかったら?親には言わなくても、心の中で何かを思うかもしれません。
これも子どもの心からでは全く考えない、大人の心からの知識です。

>登校刺激や親子の信頼関係は意味のあるものですが、もう少し他に与える影響もある事に意識をもった方が良いかと思います。
大人の心の立場からでなく、子どもの心の立場から、是非考えていただけたらと願っています。不登校の子どもにとって、登校刺激とは、刃物で傷つけられるぐらいに辛いのです。

>意識はベースになり、行動に繋がりやすいという事です。
この一行は、子どもの心は大人の心と異なることを未だご存じないという意味になると思います。子どもにも意識はありますが、その意識から行動ができないのが、子どもの心の特徴です。