母性の機能がついた眼鏡

>子供が何か私に訴えると、なんとかしてあげたくなります。それが私をとても辛くして疲弊させています。それを続けているうちに子供の存在自体が怖くておそろしいものに思えてきました。何のために生きてるのかなと思いっています。
不登校などの心が辛い子どもを育てていらっしゃる御母様なら必ず感じる辛い思いです。御母様が持っている知識、いわゆる専門家と相談しても、医者と相談しても、解決できなくて、本当に辛いと思います。
其れはなぜかというと不登校などの心が辛い子どもの心は、常識で苦しんでいます。その事実をいわゆる専門家も、医者も知らないからです。いわゆる専門家も、医者が持つ医学的な知識も、不登校などの心が辛い子どもには当てはまらないばかりか、かえって辛くしてしまうのです。つまり不登校などの心が辛い子どもの心は、常識やいわゆる専門家や、医学知識では分からないところ、それらの人の知識の外にあるからです。

>子供が幸せになる事が私の1番の願いです。子供にとって一番良い対応をしたいと私も思っています。気づかなかった事を気づかせて下さってありがとうございました。
不登校などの心が辛い子どもの心は、常識や医学的知識の外にあり、具体的な対応法はその子どもの心に沿った対応になります。その子どもの心に沿った対応が今の常識や医学的な知識とは異なります。しかし不登校などの心が辛い子どもも生物です。人間です。ですから人間としての心が機能をしています。その人間としての機能が常識と異なっていても、今の医学と異なっていても、その子どもの心に沿った対応をすれば、子どもは子どもが持つ本能から大人になるまでに自立をしてくれます。その自立した姿はその子ども特有な物になりますが、結構常識的な大人として自立することが多いです。ですから、子育ての間が常識と異なっていても、全く問題がありません。常識と異なった子育てをしても、最終的に自立した大人になってくれれば、子育ては成功になります。

>子供の為と思ってやっていた事が苦しませていたなんて本当に愚かだなと思いました。どうして何も見えなくなってしまうんだろうと反省しています
見えないのではなくて、見えているのですが、ただ常識という色眼鏡を通してみていらっしゃったので、本当のお子さんの心が見えなかっただけです。

心が元気な子どもの心を常識という色眼鏡で見ても、きちんと子どもの心は見えます。しかし不登校などの心が辛い子どもの心を見るときは、常識という色眼鏡で見たら、肝心なところが異なって見えてしまい、その異なった見方から見たことからの対応を間違ってしまうのです。

不登校などの心が辛い子どもの心を見るときは、母親だけは 「母性」 という機能がついた眼鏡で子どもを見る必要があります。
    

再登校

中学1年生の夏休みから不登校だった息子についてです。この4月から中3で高校には行きたいと言っています。どうしても友達と同じ高校に行きたいからと、この4月から再登校していました。しかし勉強の遅れで授業があり分からないので、授業について行かれません。その結果、また落ち込んでしまいました。授業がわからなくて、授業中はドキドキして、その緊張が辛いとのことです。学校に行きたいけれど、授業中がとても辛いと言っています。

小学時代、勉強は良くできたのですが、不登校になって再登校しても授業について行かれません。その結果教室に体を運んでいるだけになって、辛い思いをしているだけのようです。先日小テストがありましたが、テスト用紙を見ただけで頭が真っ白になり、ほとんど0点でした。

息子はもう普通の生徒と異なる、普通の生徒において行かれている、息子には他の生徒のように学校生活ができないと言っています。朝も起こさないと起きてこないし、とても学校に行かれる状態のようには見えません。

息子は発達障害学習障害などの心の病気があると思われるので、病院受診を考えています。

もしこの息子さんがご自分の子どもだったとしたら皆さんはどうなさいますか?

促通 条件反射

>多くの人が想像する辛いとは、何か違うのではないかと感じています。

これから申し上げますことは、理解できる方だけで良いです。多くの御母様方には理解ができないのが普通です。

情動判断=感情の判断は、大脳辺縁系にある扁桃体で行われます。視覚野聴覚など色々な感覚が扁桃体に送られて、それに相当する神経細胞に送られます。つまり扁桃体には、それに相当する神経細胞、情動=感情の入り口に相当する神経細胞があります。

扁桃体には先生に相当する神経細胞があります。その神経細胞が刺激されると一般に先生に関する感情、尊敬の感、優しさの感など感情を生じます。
扁桃体には大声でびくびくしてしまうような神経細胞があります。その神経細胞が刺激されると、体中に震えを生じるような神経細胞があります。

先生に大声でどらなられて、びくびくすると、先生に相当する神経細胞と、大声でびくびくしてしまう神経細胞が同時に反応をしてしまいます。するとその際に、この先生に相当する神経細胞と、大声でびくびくしてしまう神経細胞とが交差反応を示すようになってしまいます。脳科学的には促通と言います。これが条件反射の仕組みです。

つまり一度先生に大声で怒鳴られることで、先生に反応する扁桃内の神経細胞と、大声でびくびくして今宇神経細胞とが同時に反応をすることで、この二つの神経細胞の間に促通を生じます。

促通とは、元々繋がっていなかった二つの神経細胞の間で、一つの神経細胞ともう一つの神経細胞との間に強い結合ができて、一方の神経細胞が興奮すると促通で繋がっている神経細胞も興奮をする関係になってしまいます。不思議な現象ですが、脳神経細胞の間にそのような性質があるのです。

つまり、一度その先生が大声で生徒を叱ると、 その先生が大声を出して怒鳴らなくても、生徒の方でその先生を見ただけで、意識しただけで、扁桃体内にある先生に反応をする神経細胞と、大声でびくびくしてしまう神経細胞が反応を出してしまい、その生徒は、その先生を見ただけで、意識しただけで、その先生から受けた大声で怒鳴られた時の心を体中に再現してしまいます。

情動記憶

きっと、それは、本人にも分からないだろうし、なぜ胸の中が痛いのか、
なぜ心臓が苦しいのか、なぜお腹が痛いのか。
本当は、痛いのではないかもしれないし、もっと今までに感じたことのない感覚なのかもしれません。
それを、こころが辛いと、表現しているのでは、ないですか?
その脳の反射的な反応を出さなくするためには、普通の人が考えている何倍も時間がかかってしまうことを、母親は、受け入れるしかないのだと思います。
急がば回れではないですが、着実に、回復を待つのが一番の近道ではないかと、わたしは思っています。

>きっと、それは、本人にも分からないだろうし、なぜ胸の中が痛いのか、なぜ心臓が苦しいのか、なぜお腹が痛いのか。
本人が分かるには、本人の意識に上らなくてはなりません。不登校などの心の辛い子どもでも、辛いという事実は意識に上ります。つまり辛いという感情を生じます。

しかし辛さを生じる情報は大脳辺縁系で生じる情動ですから、その情動が体に表現されて、その体に表現された物を感じ取って、その感じ取った物を今までの経験から辛いと意識的に判断しています。

つまり意識に上る辛さは、辛い、痛い、暑いなどの、具体的な表現に可能ですが、具体的な表現をできない辛さもあります。何かしら辛い、辛いから何もできない、元気が出ない、嫌なことに敏感に反応をしてしまう、と言うことになるのだと思います。ですから、なぜ辛いのか、大人の持っている辛さと違う部分があるのは仕方が無いことです。その方面の本を読んでも、接近系の表現はものすごくたくさんあるし、回避系の表現もものすごくたくさんあります。それらはたまたまそのように意識して、感情として感じたという事実ではないかと思われます。

>本当は、痛いのではないかもしれないし、もっと今までに感じたことのない感覚なのかもしれません。
そうですね。上記のように詞であらわせられない感情表現なのでしょう。でも体の病気と同じような辛さ、痛みとして感じる場合も結構多いのです。そのような場合にはその症状を参考にして体中を今の医学で検査をしてみても、異常が見つからないから、体の病気の症状で無いことが分かります。

>それを、こころが辛いと、表現しているのでは、ないですか?
>その脳の反射的な反応を出さなくするためには、普通の人が考えている何倍も時間がかかってしまうことを、母親は、受け入れるしかないのだと思います。
そうですね。情動学習と表現されますが、子の情動学習は学校の勉強と担当している脳が共通の部分と、共通でない部分があります。いずれにしても脳が記憶した結果生じるのですから、学校で習ったことを忘れてしまうように、この情動学習を忘れるにも時間がかかります。

急がば回れではないですが、着実に、回復を待つのが一番の近道ではないかと、わたしは思っています。
そうですね。ただ忘れるだけでなく、情動学習には忘れさせる方法があることが学校で勉強をしたことを忘れるのと共通の部分と違う部分があります。

子どもの心に沿った対応

何が辛いのかを、親は、探すのではなくて、理解するのではなくて、こどものこころが、脳の奥深くにあるとして、そこが、こどもにも分からないけれど、学校に反応して、こどもの命を守るために、反射的に反応をして、逃げるように、身体中になにかを感じさせているのですよね。
きっと、それは、本人にも分からないだろうし、なぜ胸の中が痛いのか、なぜ心臓が苦しいのか、なぜお腹が痛いのか。本当は、痛いのではないかもしれないし、もっと今までに感じたことのない感覚なのかもしれません。

>何が辛いのかを、親は、探すのではなくて
特別な知識を持っていないと探しても分からないのです。特別な知識とは情動という概念を持っていること、自律神経の反応症状という知識です。
ですから探すだけ親が混乱をしてしまいます。

>理解するのではなくて
理解しようとしても、当人も分からない、大人も分からない心の現象なのです。
理解できないことを理解できるはずが無いですから、理解しようとしない方が良いです

>こどものこころが、脳の奥深くにあるとして、そこが、こどもにも分からないけれど、学校に反応して、こどもの命を守るために、反射的に反応をして、逃げるように、身体中になにかを感じさせているのですよね。
其れが情動と言葉で表現できる物ですが、情動自体を今の大人は知りません。専門家も知りません。その方面を研究している者は情動を知っていますが、其れを人に応用する方法を知りません。

親はこのMSGに書かれている事実だけを理解して、親として解決しようとして動き出すのでは無く、子どもの心の動き、要求の動きに、其れを満たす対応、つまり子どもの心に沿った対応をするのが一番良いです。其れ以外の対応はかえって子どもの症状を強める場合が多いです。

>きっと、それは、本人にも分からないだろうし、なぜ胸の中が痛いのか、なぜ心臓が苦しいのか、なぜお腹が痛いのか。
その症状は子どもによって異なります。其れは其れまでの子どもの経験から、これらの症状を出している可能性を私は推測しています。

>本当は、痛いのではないかもしれないし
本当におなかが痛いのです。ですから下痢をする子どもも居ます。気持ち悪くなって吐く子どもも多いです。本当に心臓と言うより胸が痛いのです。過呼吸になったり、深い息ができなくなったり、色々な肺の症状を出します。心拍も過剰に増えます。
これらの症状で医者も誤診をしてしまうほどです。

>もっと今までに感じたことのない感覚なのかもしれません。
本の学校に反応して辛くなるその辛さは今まで感じたことの無い感覚だと思います。しかし子どもによっては学校で受けたときの辛さを表現した結果のようです。その結果自律神経が強度に反応をして、上記の症状を出します。

医者の立場、医者の言葉で言うなら、強いストレス刺激に自律神経が強度に反応をした、自律神経症状です。でもその症状は他の病気の症状と区別がつかないことが多いです。検査をしてみると何も検査データに異常が出ないので、自立神経症だと分かります。

心が辛いとは に追加をします。

>こころが辛いのは、きっと、多くの人が想像する辛いとは、何か違うのではないかと感じています。
前回のMSGで申し上げましたように、私たちでは意識できない心の動き、情動が、心が辛い人の心の理解を難しくしています。

心が辛いとは、前回申し上げましたように辛さが繰り返すことで、その辛さを感じる程度が強くなっていきます。その程度は周囲の大人が理解できない程度の辛さになってしまいます。子どもが辛い原因が分からない、子どもが表現する辛さを周囲の大人が理解できない、理解できないから子どもを辛さの原因から守ることができない。大人が子どもの辛さの原因から子どもを守ることができないから、辛さがどんどん強くなり、子どもが死ぬほど辛くなり、荒れ狂い、心の病の症状を出し、それでもなんとしても子どもを守りたいという親が対応に苦労をすることになります。

その苦労の仕方も、子どもの辛いことを解決してあげようと、親として当然のこと、親としての優しさ、親の義務などと、考え方の出発点は何であっても、子どもが辛くなる原因を理解していない状態で対応をしたなら、子どもの辛さは解決できないばかりか、かえって子どもの辛くなる原因を子どもに与えてしまって、子どもをもっともっと辛くして、いわゆる専門機関に対応を相談したり、ゆだねたりすることになります。

このような親として当然な、常識的な考え方を捨てて、ただただ子どもが辛くならないように家の中に子どもを守ってあげるだけで、それだけでは未だ不十分で、ゲームやネット漫画、youtubeなど、子どもが没頭できることをすることを許してあげるなら、それだけで子どもの心の辛さは解決に向かっていきます。
本当に不思議なのですが、子ども自身が成長とともに社会に順応しようと、自分自身を輝かせようと、親の希望を叶えようと、動き出せるようになります。ただしその状態に子どもがなるまでに長い時間がかかる場合が多いので、親が待ちきれないという現実があります。

子どもの心が辛いと言うことは、子どもの心の成長、能力の成長を阻害します。それだけで無く場合によっては命を失うこともあります。母親なら、其れをなんとしても防がなくてはなりません。社会は、学校は学校生活が子どもの心を成長させると考えています。其れで良い子どもは其れで良いのですが、其れではかえって子どもの心の成長を阻害してしまう子どもが居る事実を、不登校の子どもを持つ親は理解する必要があります。自分の子どもを子どもの辛さから全力で守る必要があると気づく必要があります。

このような考え方は、常識と大きくかけ離れていて、ある意味で常識の逆で、常識の世界の一般社会や教育行政には理解できません。いくら社会に、学校に、政府に訴えても、常識で固まった大人には理解できません。不登校の子どもを持つ母親が理解して子どもを守る必要があります。

 

心が辛いのは他の人が想像する辛さと異なる

>こころが辛いのは、きっと、多くの人が想像する辛いとは、何か違うのではないかと感じています。もちろん、不登校児に自分がなったわけではないから、はっきり分かることはないけれど、普通の大人が思う辛いとは、かけはなれているのではないかと思うのです。言葉で表すのが難しくて上手くかけません。
ここで申し上げることを、御母様方は必ずしも理解しなくて良いのですが、その方面を研究している物として、お話ししてみたいと思います。

其れは感情です。人や動物に感情があることはきっと理解していただきたいと思います。感情は人では意識できます。意識できない感情に相当する物が、感情以外にもあります。この二つを総合して、情動と言います。

情動とは動物が生きて子孫を残すための能力と、危険から身を守るための能力の二つに分けることができます。生きて子孫を残すための能力を情動の接近系、危険から命を守るための能力を情動の回避系と言います。この情動を意識した場合を感情と表現しています。具体的な感情表現のことばはいろいろありますので、ここではこれ以上触れません。ここで辛いということばを使われていますが、辛いという言葉は情動の回避系を意識した感情を表した言葉の一つです。情動の回避系を意識した感情を表す言葉はたくさんあるので、それらの言葉を代表して、辛いという言葉を私は使っています。

情動を意識したときには感情と表現しますから、感情として言葉に表現できない情動がたくさんあります。それ故に
>言葉で表すのが難しくて上手くかけません
と表現なさるのは、感情として言葉にできませんという意味で、感情として表現できない情動の話に踏み込まれているという意味です。

ここで未だ気づかれていないというか、情動自体が気づかれていないことがあります。勿論その内容は感情でも成立することです。
情動の接近系(感情として楽しいとかうれしいに相当します)には、慣れがあることです。接近系の情動が続くと、慣れを生じて、情動として反応しなくなる、当たり前になる、無感情になる、という意味です。私たちが普段生活をして何も感じないことが続いていることは、最初は情動の接近系、感情として楽しい、うれしいに相当していたことが、繰り返すことで、当たり前になり、何も意識しないでするようになってしまうことです。
情動の回避系(怖い、痛い、寂しい、嫌だなど)には、相乗作用があることです。回避系の情動が続くと、最初はほとんど辛くなくても、繰り返すことでその回避系の作用は強くなり、だんだん回避系の作用は強くなり、最終的に生きていけないほど強い回避系の作用になります。この事実に気づいている人がほとんど居ないという現実があるのです。

不登校の子どもでは学校内で辛いことがあり、つまり情動の回避系があり、最初はたいしたことが無い辛いことだったので、当人も周囲の人も気づかなかったのですが、その回避系が繰り返すことで、その辛さがだんだん強くなり、不登校の子どもでは学校を見たり意識するだけで、生きていけないほどの辛さになってしまっています。この回避系の相乗作用で、子ども自身も、周囲の大人も、不登校の子どもがなぜ学校で辛くなるのか、全く理解できないのです。

もう一点情動について知っておく必要があることがあります。其れは情動の接近系と回避系とでは相殺作用があると言うことです。つまり接近系があってもその後に回避系が来ると、接近系の意味が無くなってくるか、後から来た回避系が作用をしてしまうという事実、回避系があっても、その後に接近系が来ると回避系の意味が無くなるか、後から来た接近系の作用をしてしまうという事実があります。

進化論という物があります。自然淘汰と同じ意味です。客観的に証明することはできませんが、情動の接近系が動物の生存を許可し、情動の回避系が動物を消滅させています。つまり、情動がその環境にあった動物を生じていて、糖物を進化させて、動物の多様性を作っています。人間でも環境によって異なる人間を作っています。子ども時代は親に守られて自然淘汰に耐えられる情動を持った、すんでいる環境に順応できる大人になって自立していくのです。

続きます。