基本に戻って 12トラウマ

今まで好きだった人が、叉は何ともなかった人が、その人の暴挙である人に辛い思いをさせたとき、そのある人がその暴挙をした人で傷ついた、心が傷ついたと表現します。このときそのある人以外の人では、その暴挙を振るった人についてその人が暴挙を振るうような人とは知りませんから、その暴挙を振るった人が怖い人だとは知りません。時には暴挙を振るわれた人以外の人々に、その暴挙を振るった人は優しい人、好ましい人と理解されているかもしれません。その様なときに、暴挙を振るわれた人がか暴挙を振るった人を怖がるのが異常だと思われてしまう可能性もありますし、現実に良くあります。

例えば子供の教育に熱心な教師がある子どもに体罰を与えた場合です。多くの親はその教師が良い教師だと、体罰を受けた子供が悪いからそれを正すために体罰を受けたと考えます。その教師は子供の生活指導に優れた教師だと考えます。所が体罰を受けた子供は体罰を受けた意味を理解しません。あの教師は怖い教師だとして、その教師を避けるようになります。親もその様なことをする子供が悪いと子供を叱る親も居るからもしれません。このようなときに子供はその教師に心を傷つけられたと、トラウマを受けたと表現します。

子供が狭い部屋で何回か同じ教師から体罰を受けたとします。すると子供はその教師を見ると辛くなると同時に、狭い部屋に入ると、体罰を受けたときの辛さを生じて、狭い部屋に入られなくなります。体罰をした教師をその子供が怖がることを親は理解できても、なぜ狭い部屋に入ると子供が辛さを生じてしまうのか、その親ですら分かりません。そこでこの子供は心の病になったと、閉所恐怖症になったと考えるようになります。当人も同じように感じるようになります。子供が体罰を受けたとき、子供はすぐにその教師を怖がるようになりますが、この狭い部屋に辛さを、恐怖を感じるようになるには、何回か同じ経験をしないとなりません。

この閉所恐怖症のように、当人も、周囲の人も、なぜそうなったのか、なぜその人がそのものを怖がるようになったのか分からないときに、何々恐怖症と言います。恐怖症では具体的にその怖がる物が分かる場合です。閉所恐怖症や、対人恐怖症、高所恐怖症等があります。この体罰を振るった今日についても、その教師を特定化した恐怖症ですが、普通は恐怖症とは言わないようです。どの教師についても、教師を怖がるようになったときには、教師恐怖症と言って良いかもしれませんが、実際にその様な場合はないようです。