よい子を演じる

よい子を演じるとは、他人から見て、特に親、母親から見て、好ましい姿をすることです。日本ではよい子を演じている子どもの姿を、子どもとして好ましいと考えられています。よい子を演じるとは、子どもの自然態の姿に対して使われている(実際にこの言葉を使っている人は少ないですが、概念を利用しています)のでしょう。

子どもが好ましい姿をするというのは子どもが持つ本能からと、辛さから逃れる場合=回避行動があります。心が辛い子ども(日本では主として心が不登校、現実に不登校か、学校が辛い子ども。多くの親が気づいていない)では、回避行動としてよい子を演じます。心が元気な子どもでは、その本能から、自分の能力を伸ばそうとして、親から見て良い子を演じ(=挑戦)ます。

心が元気な子ども、多くの子どもについて、「頑張れ、頑張れ」で良いのですが、心が辛い子どもの場合、今の自分を維持するので精一杯です(ゲームなどをしているとその様に見えないかもしれませんが)から、「頑張れ」は頑張れない心が辛い子どもをかえって苦しめます。多くの日本の心が辛い子どもは学校に対して辛さを感じていますから、学校への辛さを助長してしまいます

今の多くの親で、自分が頑張ったという思いは挑戦をしていた自分の姿だった可能性が高いと思います。多くの子ども達の学校内での姿は、殆ど子どもが挑戦をしている姿だと思われます。今の学校が辛い子ども、不登校の子供など、心が辛い子どもでは、親の頑張った経験、挑戦を続けていた経験は、自分の子供に当てはまらない場合(心が辛いことに気づかないことが多いので)当てはまらない可能性が高いです。

このよい子を演じると、ありのままの子どもを認めるとの間には、若干の違いがあります。つまり心が辛い子どもがよい子を演じていた場合、ありのままの子どもを認めるとは、よい子を演じている子どものよい子を演じていることを認めることになり、かえって子どもを辛くしてしまうからです。このことは後ほど