子どもの死にたいという言葉への考え方

一番の問題点は大人と子どもと心が違うことです。大人が大人の心で考えると、それは子どもに当てはまらない場合が多いと言うことです。それなら大人は子どもの心を考えていけないことになります。それも違うのです。
大人は知識から行動をする、大脳新皮質から行動をする事に対して、子どもは情動から、大脳辺縁系の機能から行動をすると言うことです。

二番の問題点は、子どもの心が元気なら、子どもの心を大人の心で考えてそれが子どもの心と違っていても、子どもの方で大人の心に合わせてくれる事実です。ただし、子どもにとって自分の心を無視して大人の心似合わせることは大変に難しいです。そのために子どもは報償を求めます。報償を得ることで子どもは自分の心で無く、大人の心に合わせる、つまりよい子を演じることが出来ます。この場合のよい子とは、大人の心に合わせる子どもの心の辛さを回避するため、共理解できますし、同時に障害を乗り越えようとするためのよい子を演じるの演技でもある可能性があります。
つまり情動が接近系なら、大人の要求を受け入れやすい(報償が必要)ですが、回避系だと大人の要求を受け入れられないのです。このことを、感情という言葉で経験している大人は多いと思うのですが。

その報償について、ここでは書きませんが、もしこれが子どもへの報償だと思いつかれた方がいらっしゃいましたら、投稿してみてください。

三番目の問題点は、同じ死ぬという言葉でも、大人と子どもとでは、意味が異なると言うことです。もちろん動物が動かなくなり、その動物がいなくなることは、子どもの経験から分かります。子どもはそれ以上のことを実感していないのです。大人では死ぬにいろいろな意味を持たせて考えていますが、子どもではいなくなるぐらいの意味しか持っていない場合が多いのです。もちろん年齢が大人に近づくと大人と同じように理解するようになりますが、幼い子どもでは死ぬといなくなるとそれほど大きな意味上の違いが無いと言うことです。