石原宗一郎さん2

不登校という言葉は、子供が学校に行っていないという意味です。不登校には子どもの心の状態から3種類がある事を説明したことがあります。石原宗一郎さんは不登校の分類の2の形です。不登校の分類の2とは、学校内に子どもにとって辛い物や人がいて、そのものや人を回避するために、もっと砕けた言い方をするなら、その物や人が嫌だから、その嫌な物や人がいる学校に行きたくない、行かない、と言う意味です。ですから、その嫌な物や人がいなくなると、子どもの方から進んで(子供の本能から)学校に行くようになります。石原宗一郎さんの不登校は、不登校の分類の2の不登校の子供の典型例になるのでは無いかと思います。

学校に行かないという姿から言うなら、学校に反応をするトラウマ=fecorを持って居る不登校の子供と同じですが、子どもにとって嫌な物や人がいないところなら出かけられる点が異なります。その嫌な物や人のいない学校にも行くことが出来ます。ですから転校をする意味がありますし、その子どもなりに社会の中で動くことが出来ます。また、学校内での嫌な物や人がなくなったらその学校に行かれるようになります。

多くの人や所謂専門家が考える不登校の解決の仕方は、この不登校の分類の2の不登校の子供には効果的です。不登校の分類の3の不登校の子供には、不登校の問題解決を難しくします。しかし現実には、この違いを全く配慮されていません。不登校の分類の2の子どもへの対応がうまくいったからという経験から、不登校の分類の3の不登校の子供に不登校の分類の2の不登校の子供への対応をしてしまうから、不登校の分類の3の不登校の子供がより辛くなり、不登校問題の解決が難しくなります。

ここでもう一点配慮しなくてはならない事は、学校内に嫌な物があったり人がいると、子どもの方でそれを拒否をして学校に行かなくなります。所が石原宗一郎さんのように、学校内に何か求める物が有り、その求める意欲や魅力がとても大きくて、学校内の嫌な物や人の嫌さ以上に強いようですと、子どもはその学校内にある嫌な物や人がいても学校に行ってしまいます。つまり、学校内に子どもにとって魅力がある物があると、学校内に問題があっても子どもは学校に自分から行きます。この事実を学校はもっと考えるべきでしょう。他だし学校内の魅力的な物とは教師が魅力的だと感じる物では無くて、子ども達が魅力的だと感じる物です。