子供の挑戦

ある不登校の子供の母親から
>挑戦の場合、どうして良い子を演じると表現されているのでしょう?
という質問を受けました。

子供の挑戦とは、子供がそれまでできなかったことを、できるようになろうと、自分発の意思(大人の意思と違って情動の接近系)で取り組む姿です。

子供の挑戦は、その結果は子供の成長になりますから、子供が飛躍しようとする姿ですから、親にとってうれしい物です。親がうれしい挑戦なら、その見かけは、行動は、その姿は、親から見たらよい子、親にとってうれしい子供の姿です。そして子供がそのしていることは、今までの子供のしていることと違って、無理をしている(母親の喜びを代償にして無理をしてるので、身体的にも、精神的にも、一見辛そうでも、子供にとってうれしいのです)姿ですから、その姿を演じていると理解しても良いはずです。もちろん演じているという言葉を使わなくても良いのですが。

親がうれしいと思わなければ親から見てよい子ではないのですが、子供が今までできなかったことをできるようになりたいという挑戦はたいていの親にとってうれしい、そのような子供はよい子です。もちろん挑戦している子供によい子を演じているという言葉を使う必要ないのです。子供の成長そのもの、子供の自然態だからそれで良いのです。

ここで見方を変えてください。心が辛い子供が親から、または誰かから責められて辛いとき、その辛さから逃げだそうとします。それが責められるという形で辛い思いをさせられているとき、子供は責められないようにして、その辛さから逃げだそうとします。そのとき子供は、その責める親や誰かが感心するような子供の姿をしたなら、本当は違うのだが、つまり子供は納得してそのようにするつもりではないのだが、その大人達から見てよい子の姿になったなら、その大人達はその子供が理解してくれたと感じて、それ以上子供を責めなくなります。

しかしその大人達がいなくなったら、子供は元の辛い姿に戻ります。つまり責められるという辛さを回避するために、回避行動として、よい子の姿をした、よい子を演じたのです。子供にとって自然態ではないのです。回避行動なのです。それも無意識に行っています。

この子供の心が辛くて回避行動のよい子を演じている姿と、心が元気な子供が挑戦している姿の区別が実際上不可能なのです。それでも全く区別がつかないわけではありません。その第一が、子供の姿が良い子過ぎることです。後から振り返って見ると、いつものその子供と違って、または自然態の子供と違って、良い子過ぎるのです。その際に多くの大人は、それだけ子供が成長したと考えがちになるのですが、実際はよい子を演じていたのです。

もう一点は、よい子を演じている姿と、普段の子供の姿と異なることです。ただ、普段の子供の姿を知らない大人には、普段の子供の姿と異なることに気づきません。母親でもたとえば教育ママのように、子供に関わっている母親の前では、子供は絶えずよい子を演じています。ですから、教育ママは自分の教育法が間違っていないと考えて、教育ママを止めようとしません。しかし子供は母親のいない場所で、回避行動をします。問題行動をします。ですから、子供の周囲でその子供についてのいろいろな噂が立つようになります。