ある質問(4)

実際に子供達を診たわけでもないのに、これはかなり危険なことだと私は思います。
少なくとも私の周りでは、発達障害が疑われる場合きちんと検査を受け、きちんと診断されきちんと医療や支援につながることで、学校へも行ったり行かなかったりしながらも進路を実現し、元気になっていく子の方が多いです。
不登校児と一括りにして画一的な対応ではなく、一人ひとり違う人間として、その子その子に合った対応は何かを考えるのは当たり前ではないですか?

<解説>

繰り返しますが、子供の心と大人の心と異なることをご存じないと、大人への対応が子供にも当てはまると考えてしまいます。特に心が辛い子供の場合、そうで無い子ども以上によい子を演じてしまいます。母親の前以外の子供の姿とは、子供がよい子を演じている姿と考えた方が間違いが少ないです。

>実際に子供達を診たわけでもないのに、これはかなり危険なことだと私は思います。
これは大人への対応法ですね。心が元気な子供でも、他人の大人の前では程度の差はあってもよい子を演じてしまいます。学校の先生の前の子供の姿と家で母親の前の子供の姿と異なることが多いのは、その理由からです。それは医者の前の子供の姿、カウンセラーの前の子供の姿も同じです。医者が、カウンセラーが子供の心に沿ったつもりで対応をしても、必ず子供は程度の差はありますが、よい子を演じてしまいます。特に心が辛い子供では、医者やカウンセラーの前ではよい子を演じていると考えた方が間違いがないです。それに対して母親の前の子供の姿は、母親が子供を責めていない限り、子供の本心から素直な子供の姿です。

つまり特に不登校などの心が辛い子供のほんとうの心を知るには、子供を責めていない母親の姿から子供の本心を知ることができます。医者やカウンセラーが自分の目の前の子供の姿が子供の本心からの姿だと理解したときには、よい子を演じている子供の姿から子供の本心を知ろうとすることになり、子供の本心を誤解する、間違って理解することになります。問題解決にならないばかりか、子供の心を余計に辛くしてしまいます。子供の心の立場から言うなら、とても危険な理解の仕方です。

>少なくとも私の周りでは、発達障害が疑われる場合きちんと検査を受け
発達障害とは、大人が子供の心を誤解して理解した結果を子供に押しつけることになります。発達障害とはトラウマが反応をして子供を辛くして、その辛さの表現の一つの形です。それは観察者の主観から判断されています。発達障害の検査も検査する大人の主観から成されていますから、一見客観的なテスト(体の病気のように、客観的な物を測定して行うテスト、例えば血液検査、CT等)のように一般の人には思えますが、検査をする人の判断の押しつけになっています。子供の心の立場からのキチンとではなくて、大人の検査する人の主観的な判断を子供の親に一見客観的な検査のように見せかけているだけです。

>きちんと診断されきちんと医療や支援につながることで
主観的な、客観性のない、診断で、子供の心の立場から言うなら、間違った診断で、医療や支援に繋げられた子供はとても辛くなります。このような言葉が正しいかどうかは別にして、大人で言う人権侵害になります。

>学校へも行ったり行かなかったりしながらも進路を実現し、元気になっていく子の方が多いです。
もしそうだとしたら、それも一つの対応法なのかも知れません。しかし心が辛い子供では大変に難しいと思います。一番はよい子を演じている子供の姿を不登校問題の解決と間違っていないか気になります。

不登校児と一括りにして画一的な対応ではなく
脳科学的に言うなら、トラウマという概念で子供の心を説明した方が、対応法を模索した方が、確実な解決を得られます。その意味では画一でも良いと思うのです。それは医学でも同じです。不登校に限ったことではありません。

>一人ひとり違う人間として、その子その子に合った対応は何かを考えるのは当たり前ではないですか?
勿論その通りです。ですから子供が一人一人違っていても、心が辛い子供の心にはトラウマが共通してあることに気がついて、その子供、その子供に合ったトラウマを消失させる対応法を考えていく必要があります。心が元気な子供には、トラウマを考えなくて良いのですから。