脳の年齢とこころ 4最終回

>脳細胞が機能をしなくなる理由として
>3.脳細胞がその細胞を維持するのに必要な物質(栄養と酸素)が届かなくなる
を考えて見ます。その結果所謂作話を老人がするようになります。老人にはそれしか出来ない脳の状態になっていることを、私たちは理解する必要があります。
老人がしたことを説明しても、写真にして見せても、老人にはそれを理解できない脳になっている場合があります。このことを多くの人は知っているのですが、そして脳機能の脱落が著しいと、多くの人は老人としてそのことを配慮して老人と向かい合ってくれます。

所が活動的な老人だと、活動に必要な脳細胞の死滅が遅れます。日常生活が老人で無い人と同じように出来ます。その様な老人の中に、一部の脳の機能が脱落している場合、その脳の機能を用いなくてはならなくなったとき、大きな問題を生じてしまいます。その一部の脳の機能がある範囲で脱落した場合には、日常生活にも支障を来して、脳梗塞として、病的に扱われますが、その脱落が気づけない場合、気づかなかった場合です。その脱落した脳の機能を使わなくなくてはならなくなったとき、老人はその対処が出来なくて、突然社会的な問題を生じて強います。

突然生じた社会的な問題を、老人は意識できます。しかしその結果に至った経緯は記憶に残っていない場合が多いのです。その結果日常して居た行動と、生じた社会的な問題を、残っている脳の能力で理解しようとします。それしか出来ないのです。自分が日常して居たことに老人は問題点を見つけません。その様にする脳の能力しか残っていないのですから。そこで日常して居たことと目の前の社会的な問題との間に介在していた物できおくにのこっていることを利用して因果関係を説明することになります。これが若い人から見たら作話になります。

老人は作話をしようとしてしているのではありません。残っている能力の限りを用いて説明をしています。そして一端作話ができあがりますと、それをかえることが出来ません。その作話がその老人にとって一番正しいのですから。

この事件の場合、この老人はその老人なりに日常生活も出来ていたし、自動車の運転も出来ていたので、老人自身に問題点を見つけようとはしません。そのための脳の能力を失っていたはずです。つまり、一般で言われる頑固という状態です。そしてある状況下でその老人としてしようとしたことが、脳の能力の脱落から、自分ではきちんとしたつもり(きっと機械的に、習慣的に行っていたはず)でも、実際は出来ていなかった場合です。

このような老人を社会はどの様に受け入れるべきなのか、特に社会を指導する人に理解をして頂きたいと思います。