心の回復3 追補

今一度、恐怖とトラウマとの関係を理解してください。
学校の教室内で担任から、ある子どもが激しく叱責されると、その子どもは担任に対して恐怖を感じるようになります。その際に、周囲の子どもも親たちも、その子どもが担任に叱られたから、その担任を怖がるようになる事は理解出来ます。その子どもにとって、今まで好きだった担任が嫌いになり、恐怖を生じるようになることを、心が傷ついたと表現されます。心が傷つくこと、心に傷がある事を英語でtraumaと言いますから、これをトラウマと言っても良いのですが、トラウマにはもう一つ違った使い方があります。

上記の子どもが担任がいるときには教室に入られませんが、いないときには教室に入られるのです。所が子どもにとって怖い、辛い担任がいるときに、教室内に居続けますと、あるときから担任がいなくても教室の中に入っていけなくなります。その代わり特別教室や図書館には行かれる場合もあります。この場合その子どもにとって教室が怖い場所、恐怖刺激になっています。この時、教室がこの子どもに辛い思いをさせたのではないのですが、辛い担任がいる教室にいるだけで、今度は担任がいない教室すら入っていけなくなるのです。「辛さの汎化」を生じるのです。

この事実を普通の大人もその子どもも理解出来ません。その子どもがおかしいから、病気だから、教室に入っていけないと考えてしまうのです。担任がいない教室にでも無理矢理に入らせていると、今度は教室がある学校に対して辛い思いを感じるようになります。こうなるとその子どもは全く学校に行かれなくなります。

その子どものトラウマとして、怖い担任がいるから学校に行かれないと言う物と、全く理由が分からない(本当はあるのですが、周囲の人も当人もその原因に気がつかない)のに学校に行かれないと言う二種類があります。前者のトラウマ、理解出来る恐怖を身につけることを担任に対する恐怖の学習と言います(「直接的な恐怖の学習」)。後者のトラウマは、直接的に恐怖の学習をしていません。「直接的な恐怖の学習」が強化されている間に、次に別の恐怖の学習をしてしまっています。「間接的に恐怖の学習」をしています(「直接的な恐怖の学習」を日本ではトラウマと呼んでいるようですので、「間接的な恐怖の学習」をfecor=フィーコルと呼ぶことを私は提案しています)。

この直接的な恐怖の学習と間接的な恐怖の学習とは、両方とも今までは恐怖でなかったものが恐怖になっています。然しその影響が違いますから、その結果として生じる恐怖の強さが異なります。直接的な恐怖の学習は、恐怖を生じるものが分かりますから、それを避けることが出来ます。周囲の人もその恐怖刺激からその子どもを守ることが出来ます。所が間接的な恐怖の学習のばあい、当人も周囲の大人も恐怖を生じさせる物に気づけません。その結果その子どもは恐怖を生じる物に晒され続けられて、恐怖を生じる物から逃げられなくて、恐怖の度合いを強めて行ってしまいます。回復が難しいほどの恐怖状態を作るようになってしまいます。