むりしていかなくていいよ

娘は学校に行きたくないと言っています。母親はそうなんだと聞いています。
娘は辛そうなので、母親は今日は行かなくても良いかと思いました。そこで母親はあえて理由も聞かず、
「今日は休もう、行きたくないなら行かなくていいよ、おうちでゆっくり過ごそうね」
と言いました。娘は今日学校に行くかどうか分かりませんが、
「明日は学校に行くから」
と言いました。母親は
「無理していかなくていいよ」と言いましたが、
「明日は学校に行くから」
と言いました。このようなとき、母親はどう対応したらいいのでしょうか?

不登校になる子供に限らず、日本文化の中で育って居る子供は全て、
学校に行かなくてはならないという知識を持っています。習慣として学校に行き続けています。学校に辛い事があったり、心が不登校で既に学校に行かれなくなった子どもは、学校に行こうとしないか、または、元気よく学校に行きません。

>「今日は休もう、行きたくないなら行かなくていいよ、おうちでゆっくり過ごそうね」
と言う言葉は、今日は休もうという言葉で、子供は学校を休む選択を許可されたと理解します。でも明日も学校に行かなくて良いとは理解しません。

また行きたくなかったら行かなくていいよと言う言葉で、子どもは学校を休むことを、親から積極的に認められたと感じないで、親から仕方なく休むことを認められたと感じて、一応休む選択をするでしょう。子供が学校に行きづらいことを親が理解したと、子供は感じないと思います。

また、日本の子どもが学校に行かなくてはならないと言う強い知識を持っています。学校に行かなければならないと感じて居ます。ですから、行きたくなかったらと言われても、子どもは学校に行きたいのです。行きたいけれど行かれないから辛いのです。日本の子どもには、「行きたくなかったら」という選択枝は一応ないと考えてください。ない選択枝を提案されても、学校に行かなくても良いとはとても思えないのです。それどころか、多くの不登校の子供は学校に行きなさいと言うように感じてしまいます。

おうちでゆっくいりすごぞうと言う言葉から、子供は必ずしも家でのんびりとしたり、ゲームをして過ごして良いとは感じない場合があります。それはこれまで子供が家でどの様に過ごしていたかという習慣が大きく影響をします。勉強だ、宿題だ、塾だと言われていた子どもでしたら、テレビを見て良い、ゲームをして良い、youtubeをみてよいと理解しないと思います。

>と言いました。娘は今日学校に行くかどうか分かりませんが、
確かに、学校に行かなくてはならないと強く思う子供、学校に行かなくてはならないという知識を強く持っている子供は、それでも学校に行ってしまう場合もあり得ます。その様な場合もありますから、母親だけは
「学校を休みなさい」
と命令の言葉で言うべきでしょう。そうすれば子供は母親が休めと行ったのだから休んで良いと感じるようになると思います。

>「明日は学校に行くから」と言いました。
と言ったのは、今日は休むことを受け入れたという意味です。しかし明日は学校に行くつもりだということで、今日と同じ状況が再現するという意味になります。

>母親は「無理していかなくていいよ」と言いましたが、
母親は明日も学校に行かなくて良いと言う意味で行ったはずです。所が日本の子どもは学校に行かなくてはならないという知識を強く持っています。今までも行きづらい学校に無理をして登校していたのですから、無理をして学校に行くのが当たり前になっているのです。今まで散々無理をしていたのに、無理をしなくて良いと言う言葉の意味が子供には分からないのです。無理をしなくて良いと言う言葉の意味が分からなければ、子供は無理をしていると感じないで、今まで通りに無理をしながら学校に行こうとすることになります。

>「明日は学校に行くから」
母親の無理をしていかなくて良いと言う言葉が子供に届いていないと言う事を示しています。母親が本気で子供を休ませたいのなら、はっきりと
「学校に行くな」
と言うべきでしょう。日本文化の中で育った子供についてです。