松戸の小学1年生の女の子について、子供の心からの推測

>大人は子供に言葉や文章で知識を教えます。子供はその与えられた知識から言葉にして何かを言うことが出来ます。言葉で反応が出来ます。言語行動が出来ます。ですからテストなどの答えを書くことが出来ます。答えられます。
母親の5分後に行くから公園で待っていてと言う言葉に、女の子は「はい」と言って出かけたと思います。松戸の公園は行きなれたところですから、一人で行かれたのだと思います。初めての場所だと新奇刺激と言って恐怖の方が強いでしょうから、母親が一緒でないと行かれなかったと思います。

>しかし与えられた知識から、大人のように行動が出来ないのです。反応が出来ないのです。
女の子は母親の言葉通りに公園で母親を待つことが出来ませんでした。其れは公園で待つ以上に楽しいことが女の子にはあったからだと推測されます。それは女の子にとって、キックボードが公園で遊びながら母親を待つ以上に楽しいこと(情動の接近系)だったからだと推測されます。もしそうだとすると、女の子は公園の周囲でキックボードをして母親を待っていれば良いはずです。しかし女の子は公園で待たないで流山の公園の方に言ってしまいました。きっと女の子は流山の公園の方に何回か行った経験があるはずです。もしそうでなかったら、女の子は一人で流山の公園まで行かなかったと思います。
流山の公園に行った経験があると言うことを前提にしても、なぜ女の子は松戸の公園で母親を待つより、流山の公園を選んだのか、ここが不思議です。あくまでもひょっとしたらという仮定ですが、子供の本能である母親を求めるより、母親から離れる選択をしたのかも知れません。悪までもひょっとしたらという仮定ですが、母親と女のこの間に信頼関係が弱かった、なかったかも知れません。女の子にとって、母親から辛い物を感じ取っていた(あくまでもひょっとしたらという仮定ですが、女の子は学校で辛い思いをしていて、その辛い学校に母親から行かされていたことがあったのかも知れません)のかもしれません。
小学1年生ですと行きなれた公園に一人で行って遊んでいても良いはずです。なぜ母親が同行しなければならなかったのか、たまたま今回同行しようとしたのかも知れませんが、敢えて母親と女の子との信頼関係が弱かったとしたのなら、その可能性を考える必要があります。勿論推測です。
現実にはっきりと言えることは、女の子は松戸の公園で母親を待つより、キックボードを選んで、その行き先として流山の公園を選んだことです。勿論これは女の子が意識的にしたことではありません。

>その答えに相当する行動をさせるには、その行動と引き替えに報償が必要なのです。
流山の公園でブランコをして遊んでいるのですから、松戸の公園より流山の公園の方が女の子にとってはより魅力的だった(情動の接近系)だった、そしてその魅力は、子供の本能から持つ母親への魅力(子供の本能からの報償が何かの理由で弱かった)より大きかったという意味と理解されます。

>多くの場合、子供にとっての報償とは母親の喜びです。ですがこの事実が余りにも当たり前なので、大人は報償の存在に気づかないのです。子供が知識から行動する時には、母親からの報償を得るか、母親からの報償を予感して、行動をしています。そして報償を得ることで、与えられた知識とその答えに相当する行動が結びつき、繰り返すことでその答えに相当する行動が習慣化して、その知識に対する答えの行動が当たり前に行われるようになります。
女の子が母親の言葉に従わなかったと言うことは、母親から得られる報償より、女の子が母親以外の物、流山の公園の方に魅力を感じたのです。そして流山の公園で遊んだ後、家に帰らないで、母親の元に帰ろうとしないで、土手の方に移動をしていきました(ドライブカメラに写っていたとのことです)。きっとこの土手を越えて河川敷で遊んだ経験があったのだと思います。そのときの楽しかった思い出が魅力(情動の接近系)となり、土手を越えて河川敷の近くに行ったと推測されます。当時江戸川の流量が多くて、河川敷は水で覆われていたようです。

この河川敷の手前で女の子は靴と靴下を脱いでいます。なぜ脱いだのか全く分かりません。もし女の子が河川敷の水に足を入れたいなら、水に入る直ぐ傍で靴や靴下を脱ぐはずです。このあたりのことはニュースからも、女の子の行動を推測すらできません。親が女の子を探しに来た時、靴や靴下がなかったと言っています。もしそうなら犯罪に巻き込まれたと言うことになります。もし犯罪に巻き込まれたとしたなら、犯人と女の子の接点はどこになるのか全く分かりません。