なんとしても卒業したい2

確かに学校内で辛いことが生じたならこの言葉は救いになるかもしれませんが、それなら、「学校に行くな」と否定的な言葉をかけなくても、「いつでも、辞めていいからね。」と子供が挑戦する気持ちを否定せずに逃げ道だけを用意し方がいいように思うのですが。

>確かに学校内で辛いことが生じたならこの言葉は救いになるかもしれませんが、
学校内で辛いことが生じたなら、と書かれていますね。これは不登校分類2の子供のことです。心のエネルギーはプラスですが、学校内で辛いことが障害になって、其れを乗り切るまでの心のエネルギーがないか、心のエネルギーは普通の子供と同じだけあるけれど、学校内で辛いことが生じる障害が余りにも大きくて、子供が学校に行かれない場合ですね。

心のエネルギーがプラスですから、学校内で辛いことがなくなったなら、子供は学校に行かれるようになります。具体的に学校内での辛いことが分かれば、その学校内での辛いことをなくするように親が対応をすれば良いのです。勿論子供ではその学校内での辛いことをなくせないから、子供が不登校になっていますから。

不登校分類2なら、学校内で辛いことがなくならないうちに学校に行かせると、子供の心が辛くなり、その辛さが何かの理由で弱まっていっているのなら、子供の判断で学校に行かせるという対応も決して間違いではないと思います。学校内で辛いことが強まっていると、その様な状態で学校に行かせ続けると、学校内で辛いことだけでなく、学校そのものに反応をするFCRが出来て、強まっていきます。それ故に、不登校分類3にならないうちに、一端学校を休ませて、学校内で辛いことがなくなるのを、不登校をすることで待つ必要があります。その意味で、一端学校を忘れるような対応、学校に行かさない対応が必要です。

不登校分類2なら、学校内で辛いことがなくならない限り、子供の方から積極的に学校に行こうとしません。ですから、母親からの「学校に行くな」という言葉も、「いつでも、止めて良いからね」は子供の感じ方に、それほど大きな違いがないと思います。母親の言葉に関係なく、子供の方で学校内の情報を得ようとして、その結果から子供自身で判断して、学校との距離を決めると推測されます。

>それなら、「学校に行くな」と否定的な言葉をかけなくても、「いつでも、辞めていいからね。」と子供が挑戦する気持ちを否定せずに逃げ道だけを用意した方がいいように思うのですが。
「学校に行くな」は、子供が学校に行かない責任を母親が取るという意味だと思います。学校に行かない責任を母親が取ってくれるというのですから、子供が学校に行かないことが子供にとってとても楽になります。不登校分類2でも十分に心のエネルギーをためて、学校内で辛いことがなくなったときには、子供はとても元気な心で学校に行かれます。「いつでも、辞めていいからね」の母親の言葉は、学校に行かない判断を子供に任せることになります。心のエネルギーがプラスでもその大きさが小さいときには、子供はそのまま学校を休み続ける場合と、無理をして学校で辛いことがあっても学校に行ってしまう場合、学校内の乗り越えられない障害にぶつからなければなりません。経験的に運良く乗り越えられるという場合はそれほど多くないように、経験的に思います。どちらの言葉でも、子供は学校内の障害を乗り越えられない場合、逃げ道を利用して母親の元に逃げてきますが、その逃げ道の太さが、この二つの言葉で異なっています。