トラウマ、恐怖反応

トラウマの例の光男君は杉山先生に反応をして光男君を辛くするトラウマを持っています。これは客観的な事実です。しかし、光男君自身も、杉山先生も、そして光男君の両親や同級生、学校の先生達はこのトラウマの存在を知りません。それどころかトラウマとは何かも知っていません。

光男君のようにトラウマがある人は、必ずそのトラウマを反応させる物がその人の周囲にあります。あっても光男君のトラウマを反応をさせる杉山先生のように、そのトラウマを反応をさせる物が、そのトラウマを反応をさせる物と気づかないことが特徴です。光男君のトラウマが反応をしたとき、そのトラウマを反応をさせたのが杉山先生だと誰も気づかないのです。ですから光男君の周囲の人は、光男君が突然辛い思いをし始めたとだけ理解するのです。光男君が辛い思いをする原因が光男君の中にないのに、その原因を光男君の中に求めてしまいます。ですから幾ら探しても見つからないので、光男君が心の病気ではないかとかんがえはじめます。

この状態で光男君が学校に行かなくなったら、不登校分類2型になります。学校に杉山先生が居なくなれば、光男君のトラウマは反応をしなくなりますから、学校に行っても光男君は辛くなりません。学校生活を楽しめることになります。

この状態で光男君が学校に行き続けたら、勿論光男君自身は学校に行かないでしょうが、親や周囲の大人の力で学校に行かされ続けたら、光男君は杉山先生を見ただけで、杉山先生を意識しただけで、光男君は辛くなり、それが繰り返されることで、光男君の辛さはだんだん加重されていき、死ぬほど辛くなります。その光男君の辛さが加重されていく過程で、光男君は杉山先生が居る学校そのものにも辛くなっていきます。杉山先生が居なくなっても、光男君が学校に行くだけで、学校を意識するだけで死ぬほどの辛さを感じるようになります。

つまり光男君のトラウマは、初めは杉山先生に反応をして光男君を辛くしていましたが、やがて学校自体に反応をして、学校という概念に反応をして、光男君を辛くするトラウマを、光男君は持ってしまいます。

虫、蛇恐怖症のように、トラウマが反応をする原因が理解できるときには、一般にこの心の反応をトラウマと言いません。虫恐怖症、蛇恐怖症と言います。ところが光男君の場合の杉山先生や学校の場合、この杉山先生や学校が光男君を辛くすると周囲の大人も当人も考えません。そこで原因もなく光男君が辛くなっていると、光男君の心にトラウマがあるから、光男君が辛くなっていると考えてしまいます。

トラウマという限り、必ずそのトラウマを反応をさせる物があります。しかしそのトラウマを反応させる物を、人々がそのトラウマを反応をさせる物だと考えないだけです。その点が恐怖反応とトラウマとの違いです。