コメントから

心が元気になると大人からしたら常識的ではないことに対してでも自分発の挑戦をしようとします。うちの場合も常識的目線からしたら非常識な行動ですが自分発で挑戦し大人の常識からしたら、それを認める私は無責任な母親に見られています。だけど子供の心の強さを感じ、常識ある大人に非難されてもこれで良いと思っています。
そして大人の常識からみると(母親の立場として)非常識ではありますが、子供は決して母親(私)を困らせるようなことはせず、問題が生じても自分で解決する術を身につけていました。
まだ就労する年齢ではありませんが、これこそが自立だと私は思っています。不登校ではない心の元気な子供たちは普通に自立していくのでしょうが、不登校で心が辛くなった子供に関しては、「子どもが大人の常識に沿った姿をしていると不安に…」思う方が良いと見ています。

<解説>

>心が元気になると大人からしたら常識的ではないことに対してでも自分発の挑戦をしようとします。
自分発の意思からの挑戦、行動は、子どもの知的能力とその知識に基づくを促進します。
子供の心では、知識は知識だけで存在しています。知識から言葉にすることは出来ますが、知識から行動へは大変に難しいです。できないと言って良いと思います。しかし自分の意思からの行動で身につけた知識は、知識と行動が結びついています。それは知識からの意識的な行動ではなくて、知識からの習慣行動なのです。しかし大人の心になると、知識からの行動が直ぐに出来るようになります。つまり大人の心が有効に機能をすることになります。

>うちの場合も常識的目線からしたら非常識な行動ですが自分発で挑戦し大人の常識からしたら、それを認める私は無責任な母親に見られています。
それは失敗を認める母親という意味になります。上記の様に母親が答えを与えてしまうと、知識は知識、行動は行動となり、子どものうちでは知識からの行動になりません。大人の心になったときに、子どもの時からの経験が知的に吟味されたなら、知識と行動とが一致してきます。しかしそれには時間を要するようです。大人になって直ぐに役立たないのです。

>だけど子供の心の強さを感じ、常識ある大人に非難されてもこれで良いと思っています。
そうですね。失敗も良い経験です。失敗することで次の経験で成功に通じます。成功すれば経験、知識と行動とかしっかりと結びついて、子ども心と行動という関係が無理なく、子どもが納得した状態で結びついていきます。
子育てとは子どもの失敗をその失敗から守り、順調な成長は、それを認めていく物ではないかと思います。子どもある枠にはめるような育て方も間違いではないですが、子どもがそれを嫌だというなら、その嫌だという子どもの思いも尊重して上げられるのが親の子育てではないかと思います。
常識では正解を教えることですが、その正解も子供の心に沿った正解出ない場合が多いです。大人の常識を押しつけることになり、子どもの自然な成長を阻害する可能性が高いです。
子どもが何かをして成功すればそれで良いですし、それも子どもの学習になります。失敗すればそれが良い学習になることが、母親による子育てです。それは学校で教える教育とは全く異なります。

>そして大人の常識からみると(母親の立場として)非常識ではありますが、子供は決して母親(私)を困らせるようなことはせず、問題が生じても自分で解決する術を身につけていました。
母親が失敗を許すことで、子ども自身で自分なりの正解を見つけたという意味です。それは子どもの将来にとても大きな役割、その子どもなりの成長を可能にして、社会の中でその子どもなりの生き方を可能にします。

>まだ就労する年齢ではありませんが、これこそが自立だと私は思っています。
自立又は大人に向かっての自立の準備という意味でしょう。

不登校ではない心の元気な子供たちは普通に自立していくのでしょう
ある意味でロボット的な大人になるという意味ではないかと思います。常識で固まった大人、それも悪いことではないですが、大人社会の中でうまく生きるすべになるのでしょうが、次の世代、子どもを育てるのに苦労をすると思います。勿論苦労なく子どもが育てばそれも一つの立派な子育てなのですが。