ある意見 1

ある意見

>子供を遠くから見守るだけで、心から子供とかかわろうとはしない誤った受容的な対応が、親にも支援者にも増えています。

この著者の意見は、著者に好ましくない子供達を一まとめにして述べています。どの様な子供にどの様な親が関わろうとしないのかを述べていません。

多くの親は子育てに一生懸命です。自分たちを犠牲にしても教育にお金をつぎ込んでいます。このような親のことを言っているのではなさそうです。
一部の親が見かけ上一生懸命子育てをしているが、子供に家庭内暴力をしている親が居ます。このような親を言っているのではなさそうです。

子供を遠くから見守ると言う言葉を使っているからには、子供を育てているけれど、自分の子供に関心を持っているけれど、その子供に見かけ上関わろうとしないように見える親、を言って居るのだと思います。実際、親が子育てをしている限り、子供に関わっています。檻に入れた動物を飼っているのと違います。子供に関わらないで子育ては出来ないからです。

子供と関わろうとしないという言葉は、子供をしつけないという意味ではないかと思われます。しつける必要がない子供、自分からどんどん成長をしていく子供も居ます。それでも親の支えがないと、つまり親からの関わりがないと子供は生きていけません。このような子供には親の方から積極的な関わりは必要ないです。親が子供に見かけ上関わろうとしないのは間違いではないです。

ですから著者の言いたいことは子供の問題行動を放任している親という意味で使って居ると思います。子供の問題行動に関心を持っていない親という意味でしょう。ですから受容と言う言葉はこの場合には好ましくありません。受容と言う言葉から、子供の問題行動に関心を持っているけれど、それを正すことが出来なくて、それを受け入れざるを得ないという意味ではないかと思います。

心から子供と関わろうとしないという言葉から、親の性格として子供と関わらないと言う意味(実際に子供に関わらないと子供を育てることは出来ませんから、この意味は除外出来ます)か、親として子供に関わるのをあきらめたと言う意味ではないかと思います。あきらめるまでの経過として、一生懸命子供と関わったけれど、関わるとかえって子供が問題行動をすると言うことから、あきらめざるを得なかったという意味でしょう。このような親の姿は受容ではありません。そうすると誤った受容と書いた意味は何なのでしょうね。著者の意図的な価値観の押しつけのような気がします。